定点観測船のこと
[1:歴史 ]むかし日本列島の南や北東で気象や海洋観測をする役目の、定点観測船というのがありました。終戦直後の昭和 22 年 ( 1947 年 ) 10 月から始まったもので、天気図を書くのに必要な気象観測 データが入らない空白地帯を埋めるために、気象庁の観測員が海上保安庁の船に乗り組んで観測業務に従事しました。私が学生時代に気象を習った先生が定点観測船で気象観測勤務をしたことがあったので、授業の合間にその体験談を聞くことができました。南方 ( 観測 )定点は四国沖の 東経 135 度、北緯29 度の地点 ( 室戸岬の南 500 キロ ) にありましたが、定点観測船が現場に到着すると エンジンを停止し、波の間に間に漂流を開始するのだそうです。航走しないので舷窓からは風が入らず クーラーがない当時の船内は夏はうだるような暑さで、旧海軍の 千 トンの海防艦を改造した船のために良く揺れたのだそうです。漂流中に船の残飯を捨てると魚が集まりそれを エサにする サメ がいたので、夏は海で泳ぎたくても危険で泳げなかったのだそうです。1 日に 1 度 エンジンを起動して風や海流により流された分だけ戻り、決められた位置の 50 マイル ( 90 キロ ) 以内に船が留まるように移動しました。 しかし富士山頂の気象観測 レーダーの設置や気象衛星 「 ひまわり 」 の運用開始などにより、定点観測は 34 年間に亘るその役目を終えて昭和 56 年 ( 1981 年 )11 月に廃止されました。 1940 年当時から米国は定点観測船 ( Ocean Station Vessel ) の運用に最も熱心で、米国の周辺海域に アルファ ( A )、ブラボウ ( B )、チャーリー( C )など 15 の地点を設けて洋上の気象観測に当たると共に、大西洋、太平洋、カリブ海などの航空路を飛行する飛行機に、位置確認の電波を発射して航法援助をすると共に、緊急時の海難救助をおこなうのを任務としていました。
[ 2:定点観測船による、不時着水機の救助 ]![]()
[ 3:定点観測船、おじか ]捕鯨で有名な和歌山県太地町の遠洋まぐろ漁船「 第 1 太功丸 ( 38 トン、13 名乗組 )」 は、昭和 43 年 ( 1968 年 ) 5 月 11 日に 3 千キロ彼方の グアム島南方の西 カロリン群島に向けて出航しました。しかしその日の夕方に順調に航行中の連絡をした後に、無線連絡が途絶えました。無線機の故障かも知れないと心配していましたが、4 日目になっても連絡が無いので海上保安部に届け出ました。高知保安部の巡視船や航空機が捜索しましたがなんの手懸かりも得られず、捜索開始の一週間後に海上捜索は打ち切られました。出航から半月後の 5 月 27 日の朝に遭難対策本部に 1 通の電報が届きました。 「 タスカッタ 」 、その電報の発信人は遭難漁船の松崎船長からでした。続いて串本海上保安署からも救助の詳しい情報が入りました。それによれば東京から フィリピンの ミンダナオ島に向かっていた金成汽船の貨物船 「 尚昭丸 」 が、潮岬南方 520 キロの海上で漂流中の ゴムボートを発見し 13 名全員を無事に救助したというものでした。
遭難者が語る当時の状況
[ 4:定点観測船の大発見 ]![]() 農業に関係が無い人でも昔から 「 ウンカ 」 が稲作の害虫であり、その名前を聞いたことがあろうかと思います。最近でも数年に 1 回は 「 ウンカ 」 が多発して農家を悩ませてきましたが、その生態については未だに不明な点が多く、農業学会でもウンカの成虫が冬に日本のどこかで越冬し春になると各地に飛散する 「 越冬説 」 と、毎年海外から気流に乗って飛来するという 「 飛来説 」 とに分かれたまま結論が出ない状況でした。 日本では 「 越冬説 」 が優勢でしたが、「 おじか 」 の報告により 「 飛来説 」 が決定的となり、さらに南方定点観測船 「 のじま 」 でも 「 ウンカ 」 の飛来現象を 3 回確認し、水産庁調査船陽光丸による東支那海での 「 ウンカ 」 採取の結果から 「 飛来説 」 が確定されました。
注:1)享保の大飢饉 稲作と共に始まった稲の害虫との戦いは、無数に飛来し爆発的に繁殖する 「 ウンカ 」 の前に農民は為すすべもありませんでした。戦前の農村では 「 虫送り 」の行事 がおこなわれましたが、害虫の退散や沈静を集団で神仏に祈った行事でした。
注:2)イナゴとウンカ
[ 5:ウンカの拡散予測 ]![]() 上の写真は水産庁調査船の陽光丸による、東支那海における 「 ウンカ 」 の捕獲採集活動の様子。
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