sky



─ Luke ─






次の朝、ルークは馴染みの無い良い匂いで目を覚ました。カーテンの隙間から射し込む朝日が、晴れ渡る青空を予感させる。大急ぎで服を着替えて、寝室のドアを開けると、台所に立つ男の後ろ姿が目に入った。

「起こしたか?」
「ううん、いつもこれくらいには起きてる。良い匂い、何?」

振り向いた長身の宿泊客に裸足のままぺたぺたと近付くと、ルークは香りの正体を覗き込んだ。

大きな手が、小さな手動のグラインダーの取っ手を回す度に、独特の芳香が広がっていく。粉末になったコーヒー豆をカップの上にセットされたサーバーに移して、男は薬缶で沸かした湯をゆっくりと注いだ。じっと一連の動作を見つめていると、ソロは眉を上げて逆に珍しい物でも見るように少年を注視した。

「コーヒーが珍しいのか?」
「叔父さんも叔母さんも、お茶しか飲まなかったから」

白い陶器に注がれた深い褐色のカフェイン飲料は、目の覚めるような苦さと香りで口の中に広がった。思ったよりも鋭い苦味に、少年は急いで席を立ち、棚の中から粉末状のミルクと砂糖を出した。

「今日は砂嵐は無さそうだな」

背後から声をかけられ振り向けば、男は笑みともつかない少しばかり皮肉めいた表情を浮かべていた。

「うん、きっと一日いい天気だよ」

たっぷりの砂糖と粉ミルクをコーヒーに足して、ルークは甘くなった湯気ごしに微笑んだ。ソロは少しだけ驚いたように眉を上げ、何か言いたげな眼差しを投げる。それはすぐに苦笑に変わり、窓の外に広がる眩しい景色に向けられてしまった。






男の乗り物は、布で覆っていたおかげで砂嵐の被害を受けずに済んだ。街に行きつくことを諦め、トラックから修理に必要な部品を一つずつ外す作業に取りかかったソロに、ルークは喜んで手を貸した。

修理の合間に少年をコクピットに座らせて、寸胴なボディに立て掛けられた古い梯子に器用に足をかけ、ソロは操縦方法や計器の読み方を丁寧に教えてくれた。そうしてルークは見たこともなかったメーターやボタンの名前と役割を少しずつ覚えていった。

ゴーグルをつけて操縦席に座るだけで冒険をしているような気分になることが出来たし、ソロが語る旅先の出来事の一つ一つが、キラキラ光る宝物のように胸の中に積もっていく充足感も好きだった。聞けば必ず答えてくれる年上の操縦士が微笑むたび、ルークの中に小さなつむじ風が巻き起こる。

とても幸せな気分で、使い込まれグリップがところどころ擦れている操縦桿を握り、大空に舞う解放感を夢想していたルークは、木製の計器板の中心に位置している半球状のガラスを指差した。

「これは何?」
「それは姿勢指示器だ。曲芸じみた飛行をしてると、どっちが空でどっちが地面かわからなくなる。そういうときはこいつを見て翼を地平線と平行にするんだ」

そこまで言って、男は曲芸という言葉を聞いて目を輝かせた少年を見て笑った。

「海の上を飛んでるときは、とくにな。どっちが空でどっちが海か、わからなくなるぜ」
「海は空みたいに青いんだ?」

子供じみているとわかっていながらも自分を止められずに、ルークは勢い込んで尋ねた。男は驚いたように眉を上げた。

「見たことがないのか?」

自分を取り巻く世界が小さなことを恥じる気持ちが、高揚した気分を少しばかり下降させて、少年は唇をとがらせた。

「あんたみたいに飛べないんだから、仕方ないだろ」

あやすように砂色の髪を乱され、くすくす笑って顔を背けると、幾分か真面目な声音でソロが問いかけてきた。

「ここを出たことがないのか?」

さすがにそれはないよ、とルークは首を振り、ずれてしまったゴーグルをはずした。

「湖のそばの町になら、小さい頃よく連れていってもらったよ」
「湖と海じゃ大違いだぜ、坊や」

ハンは海が好きなの?と問いかけると、何故か不意をつかれたような表情をした男は、そうだな、と控え目な返事をした。

「ここに来るとき、海の上を飛んだ?」
「いや、ここしばらく沿岸のルートは飛んでない。長距離の依頼なんて、コイツの重量じゃそうそう来ないしな」

愛機の胴体を軽くたたいて、ソロは続けた。

「最後に海の上を飛んだのは今年の春先だ。イルカはしょっちゅう目につくし、その時はいなかったが、運が良ければ鯨も見える」

本の挿絵でしか見たことのない生物が、波を切って泳ぐ様子を思い浮かべて、ルークはため息をついた。そんな景色を見ることができたなら、きっと何時間でも飽きずに見つめていられるだろう。

「いつか、見られるといいな」

独り言めいたルークの台詞に何かを返しかけて、ソロは口をつぐんだ。気配を感じて少年が顔をそちらに向けたとき、男は修理に戻ると言い置いて、梯子を降りていってしまった。






三日目の朝、硬く平たいパンを齧っていたソロが、不意に少年の前髪に触れた。

「切ってやろうか?」

ぱちくりと目を瞬かせると、男は重力に逆らってくるくるとはねるルークの砂色の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「随分と邪魔くさそうにしてただろう」

頬張っていたチーズを飲み込んで、ルークは訝しげに相手を見つめ返した。

「ちゃんと切れるの?」
「嫌ならいいんだぜ」

確かに、叔母が亡くなってから伸び放題の髪は、手入れをされることが極端に少なかった。そろそろどうにかしたいと思っていたところで。それでも、少年はわざとしばらく考え込む演技をして、高飛車な返事をしてみせた。

「うん、じゃあ、あんたの腕を信じるよ」

憤慨した振りをした男が、大仰に肩をすくめて、ルークは思わず吹き出した。

玄関の外に椅子を置き、使わなくなったシーツをポンチョのように首にまきつけた少年は腰を下ろした。古びた鋏を握った臨時の理髪師は、濡らしたタオルでルークの髪を湿らせてから作業を始めた。時折全体の様子を見ながら、思いのほか慎重に作業を続ける男の長い指がくすぐったい。襟足をなぞられてつい首をすくめると、こら、と低い声が降ってくる。

「動くなよ。耳を切っちまっても知らないぞ」

わざと低く唸るように耳元で発せられた台詞は物騒だったが、男の声はどこまでも優しい。くすくすと止まらなくなった笑いを洩らせば、ソロも低く笑っているのが背中越しに伝わってきた。

笑いが治まり、真剣な表情になった男が鋏を動かす。肩に落ちてきた髪の毛を弄びながら、少年は叔母の部屋から見つけた手鏡に映るソロの顔を見つめた。

やがてしゃきしゃきという鋏の音がやんで、男が満足げに息を吐いた。

「ほんとに短くなってる」
「出来ると思ってなかったような言い草だな」

すっかり軽くなった髪を再びくしゃくしゃとかき乱され、ルークは声を上げて笑った。






「坊や、準備はいいか?」

四日目の午後、朝から作業を続けていた男がついに操縦席に入り込んだルークを呼んだ。

トラックから少しずつ移して付け替えた部品は所定の位置にどうにか納まった。カバーパネルを外した状態で見えているエンジン部は酷く不格好だったが、ソロは自分の修理に満足しているようだった。

鉄の覆いを再び機体にとりつけて、男は額の汗を拭うと機体を回って下方の翼に手をかけた。

「よし、いいぞ」

エンジンスターターの高い音が響き渡り、鉄の翼は待ちわびたその振動を受けて嬉しそうに震えた。やがて硬質なプロペラの回転音がそれに加わり、少年は歓声を上げて操縦席から男を呼ぶ。そのとき既に長身の操縦士は梯子を蹴倒す勢いで機体を登ってきていた。

「このままテストランだ。悪いが代わってくれ、キッド」

緊張と期待が交じり合った年上のパイロットの表情はいつになく真剣で、間近で見つめた所為か、どきりと少年の鼓動が跳ねた。急いでコクピットから抜け出し、ルークは梯子を降りて立てかけてあったそれを引きずり、機体から離れた。

「幸運を祈っててくれよ」

力強い音をたてるエンジンに負けないように発せられたその台詞は、おどけているようでいてどこか切実さを帯びていた。ルークはただ大きく頷き、重たい梯子を地面に放り出すと安全な場所まで走って離れた。

地面に深く溝を刻んだ車輪が重たげに動き出すのと、少年が振り返るのとはほぼ同時だった。完全に伸ばしきれずに着陸を強いられた脚輪は、それでも充分に役目を果たしているようだった。

ゆっくりと動き出した機体が徐々にスピードを上げていく。二枚の翼が投げかける影が硬くでこぼこしている地表をすべり、形を変えながら風を切り走るその姿を、ルークは呼吸をすることも忘れて見つめた。

息を止めて見守る少年の眼前で、車輪が地を蹴り、重い鉄の翼が風に乗った。目に見えない傾斜を滑るように駆けあがり、空へと上っていく無機質な鳥の姿を瞳に映し、ルークは走り出していた。

重力を屈服させて、頭上で旋回を始めた機体の真下まで走り、息を弾ませた少年は千切れんばかりに手を振った。眩しい日差しが目に突き刺さったが、構わず腕を振り続けると、逆光で影になったコクピットからソロが手を振り返したのが見えたような気がした。

まるで一瞬の出来事のように焼きついたテスト飛行はすぐに終わりを迎え、男を乗せた翼は前回とはまるで違った優雅な着地を披露した。操縦席から降りてきたソロは遠目にも活き活きしているのがわかり、高鳴る鼓動を抑え切れずに駆け寄り飛びついた少年をよろめきもせずに腕の中に攫った。

「やった、やったね!」

涙が出そうなほどの高揚感を言葉にする術を知らず、ルークは飴色のフライトジャケットの背に腕を回し、力をこめて抱きしめた。

「お前のおかげだ、坊や」

同じだけの力で抱擁を返したハンは、心なしか潤んだ少年の瞳を見下ろして砂色の髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。

「これでまたあいつを飛ばせる」

優雅な滑空を披露した鉄の鳥を振り返り、そう言った男はどこか誇らしげだった。そのとき初めて、少年はその言葉が何を意味するのかようやく理解した。頭の芯が、すっと冷えていく感覚に、ソロの背にまわした腕から力が抜けた。

「明日出発する」

当たり前の台詞が無防備な心に突き刺さり、鋭い痛みを感じてルークは奥歯を噛み締めた。そう、と呟いた自分の声がみっともなく震えていないことに安心する。目を合わせていられずに俯くと、一瞬の沈黙が落ちて、やや躊躇いがちな声が降ってきた。

「お前には世話になったな、ちゃんとコイツを直したら、礼をしに…」
「いいよ、そんなの。僕も楽しかったし」

その代わり、と一瞬だけ躊躇して、ルークは顔を上げた。

「それ、僕にちょうだい」

微かに震える手で胸元を指差すと、一瞬目を見張り、口の端を吊り上げて微笑んだ男は、少年が戸惑うほどに優しげな眼差しを向けてきた。

首に下がったチェーンからタグを一枚はずすと、ソロは黙って銀色のプレートをルークに差し出した。小さな金属片に手を伸ばそうとして、不意に少年は足元がぐらりと揺れるような錯覚を覚えた。

いつかこの人が、この世界からいなくなっても ── もう、知ることも無い

酷い眩暈と共に襲い来る痛みを防ぐ術もなく、男の手からドッグタグを乱暴に奪い取るとルークは俯いて目を逸らし、そのまま逃げるように踵を返した。戸惑った声でソロが名を呼ぶのが聞こえたが、もう何も見たくなくて、聞きたくなくて、少年はまっすぐに家に駆け戻ると、寝室に逃げ込んだ。

叩きつけるようにドアを閉め、扉に背を預けてずるずると冷たい床に崩れ落ちる。きりきりと締めつけられるような痛みに呼吸が乱れた。ツキンツキンと奥から刺すような痛みが込み上げる胸元に手を当てて、ルークは男の名が刻まれたプレートをぎゅうと握り締めた。いつもは安心感をくれる小さな銀色のペンダントは、今はチュニックの中で不快に冷たく肌を刺激した。

そうすれば痛みが和らぐと信じているかのように、なにもかもを閉め出そうと固く目を瞑り、少年は込み上げる嗚咽を堪えた。苦しげな吐息が部屋の乾ききった空気に溶けていくのが、何故だか無性に哀しかった。

胸が痛くて苦しくて冷たくて、息ができない。

ぱたり、と乾いた音をたてて雫が床に小さな染みを作った。喉の奥に何かが詰まっているようで、声を上げることすらできない。つんと鼻をつく新たな痛みがどこか懐かしい感覚だと気づいてしまい、更に視界はぼやけていくばかりで。

言えなかった言葉が焼き付いているかのように、ひりひりと痛む喉はしゃくりあげるたび痛みを訴えた。

明日彼が飛び立てば、もう二度と会えない。

漠然とした予感などではなく、それは哀しい確信だった。







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