3
複葉機のエンジンからは未だ煙が立ち昇っていた。座席の下にしまってある工具箱を取り出し、愛機の寸胴なボディを覆う鉄板を取り外す。焼き切れた配線や黒ずんだパーツの惨状は思ったより酷く、悪態をつく男の様子を金髪の少年──ルークがじっと見つめていた。
愛機の機体には頼もしい傷跡や修理の跡が縦横無尽に走っている。エンジン部を覆う鉄の表皮を取りはずし、地面に降ろすと、こらえきれなかったため息が口をついた。気を取り直して工具を手に取り、ソロは傷ついた愛機の内部を丁寧に調べはじめた。
少年は静かにそれを見守っている。見つめられていると落ちつかない気分になったが、邪魔をしているわけでもない相手を追い払うことはできない。それに、近くに住んでいるならば、いざというときに協力を得る必要があった。
「プライヤーを取ってくれるか」
ものは試しと工具の名を告げてみれば、躊躇いもなく言ったとおりのものが差し出された。工具の知識はあるようだ。礼の代わりに笑みを向けると、まっすぐな眼差しで見つめ返される。よほど余所者が珍しいのか、それともあれは少年の癖なのか。
照りつける太陽は、コクピットを吹き抜ける風がなくなった今、邪魔されることなく飴色のフライトジャケットに熱を篭もらせる。上着を脱ぎ、外したスカーフと一緒に地面に放ると、言われるままに手を貸していただけだった臨時の助手が不意に口を開いた。
「それ、僕も持ってるよ」
ソロは面食らい、工具箱の傍らにしゃがみこんだ少年を見下ろした。男の首にかかった認識票を指差し、ルークは胸元から古びた鎖と傷だらけのドッグタグを取り出した。
「お父さんの、だったんだ」
派兵された先で命を落とした軍人の家族に会うのは初めてではない。男は黙って少年を見つめた。大切そうに風変わりなネックレスを服の中にしまうルークの横顔に翳りはない。認識票が家族の元に送り返されることが、どういう意味かわかっていないのではないかと疑いかけて、ソロは目の前の少年をまるきり子供扱いしている自分に気づき、すぐにその考えを打ち消した。
「母親と住んでるのか?」
「ううん、叔父さんと叔母さんと暮らしてたんだけど、オーウェン叔父さんは三年前に病気になって、そのまま。叔母さんも去年倒れて、二ヶ月前に死んじゃった」
天気について語るように、大きな喪失を軽い口調で言いきった少年の瞳に、一瞬だけ寂しげな色が過る。しかしそれはすぐに笑顔に塗りかえられて、男はほっと胸を撫で下ろした。ルークは工具箱の傍にしゃがみこんで、容器の内部に散らばったナットやボルトを拾い集め始めた。
「家を出る気はないのか?」
「叔父さんが生きてた頃は、ずっとアカデミーに行きたいって思ってたんだ。でも反対されてて。叔母さんまで倒れちゃってからは、残していくわけにもいかなかったし」
軍事学校の名を挙げた少年のつむじを見下ろして、ソロは自分もかつて在籍していた組織の制服を着たルークの姿を思い浮かべた。機械の扱いに慣れているなら、実技の講義は難なく通過することが出来るだろう。その他の技術が認められれば、船や戦闘機の操縦士への道も開ける筈だ。
アカデミーの新規生徒募集の期限にまだ間に合うことを思い出し、勿体ないな、と随分お節介なことを考えて、男はまるで自分らしくないその思考を苦笑して止めた。
「それで、この子は直りそうなの?」
「なんとも言えんな。持ち合わせのパーツじゃ足りそうにない」
愛機の損傷は最悪の状況は免れていたものの、簡単に点検しただけでも、予備部品が足りないことがわかった。配線やパイプを交換すれば飛べる保証も無い。
「ここからいちばん近い修理屋はどこにある?」
「街にいけば、車の修理をしてくれるところがあるけど…」
工具箱の蓋を閉じて立ち上がった少年が、街は遠いよ?と首を傾げて見上げてくる。
「じゃあお前は、どうやって必要なものを調達してるんだ?」
「街に住んでる友達が、食料とか郵便物を一月に一回届けてくれるんだ」
一日がかりでバイクを飛ばしてくるんだ、と無邪気に言われて、ソロは頭を抱えたくなった。
「その友達とやらは、いつ来るんだ?」
「ビッグスは先週来たばっかりだから、あと四週間は来ないよ」
駄目押しの一言で、男は思わず空を仰いだ。
「他に移動手段は?まさかないってことは…」
「それが、ないんだ。昔はあったんだけど」
済まなそうに肩をすくめたルークは、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、部品が必要なんだっけ」
エンジンならあるんだ、と少年は言った。
「この鳥に合うかどうかはわからないけど」
手を引かれ連れてこられたのは、平屋の裏手に建てられた小屋だった。古めかしい作りの重い扉は、ソロの予想に反して不快な音は一切立てず少年の手でゆっくりと開かれた。
お世辞にも綺麗とはいえないトラックが、車庫の中で眠っていた。
「叔父さんが死んで、走らなくなっちゃったんだ。直そうとしてもエンジンがかからなくて」
まるで動物に接しているかのように、おんぼろトラックのボンネットを撫でながら、ルークが言った。
「でも、部品は使えると思う」
「いいのか?」
少年は屈託無い笑顔で頷く。ちゃんとした修理をすれば、まだ走れそうなトラックを前に、ソロはしばし思案した。ここで間に合わせの部品で複葉機の修理をするのと、このトラックで近くの街まで飛ばして部品を買いつけるのと、どちらが早いだろう。
男の思考を読んだかのように、ルークが口を挟んだ。
「さっきも言ったけど、いちばん近い街まで、車でも半日以上かかるんだ。途中で故障なんかしたら、野宿する羽目になっちゃうよ」
この辺りは狼が多いんだ、と付けたして、少年は額にかかる前髪の隙間から男の表情を伺った。
「急いでるの?」
「報酬を貰いに帰る途中なんだ。急いでるといえばそうだが」
後払いの仕事は、普段なら請け負うことはしない。今回は高額な依頼に気を良くし、三分の一を前金として徴収し、配達証明書を持って依頼人の元へ残りの報酬を受け取りに帰る途中だった。
「どっちにしても、今日は諦めた方がいいよ」
少年が開け放されたガレージの戸から空を見やり、言った。しかし、太陽は中天から下り始めているとはいえ、まだ数時間は青空が広がっている筈の時間帯で。
「暗くなるまでに修理を始めておきたいんだが」
「砂嵐が来るよ」
それが当然とでも言うように、少年はガレージの棚に丸めて置かれた厚手の布を降ろし始める。
「待てよ坊や、こんなにいい天気なのに、砂嵐が来るって?」
「うん。だから、あんたの乗り物には今のうちにこれをかけた方がいいと思う」
呆気に取られた男を見上げ、やっとその驚きの原因に気づいたように、ルークは申し訳なさそうに微笑んでみせた。
「…昔から、こういう勘は良く当たるんだ」
半信半疑で、それでも言われたとおりに、砂が入り込まないよう、コクピットやエンジン部に布をかけ終わった頃には、荒野に強い風が吹き始めていた。
少ない荷物を持って、少年の家に招き入れられたとき、空はすっかり薄暗くなっていた。
他に選択肢もなく、男は奇妙な遭遇者の家に厄介になることになった。食事の支度や寝室の用意をしながら、少年は小さな家の中をくるくると動き回る。お世辞にも手際が良いとは言えなかったが、懸命に家事をこなす姿は微笑ましく、悲観的な状況にも関わらず、男は悪態をつくことも忘れていた。
本格的に勢いを増した風で、外はごうごうと砂が吹き荒れている。居心地の良い小ぢんまりとしたダイニングテーブルで出されたスープは少し味が薄かったが、空腹を訴えていた胃を落ちつかせてくれた。
井戸水で生活している少年の家には水道は無く、沸かした湯をたらいに入れて濡らした布で身体を拭うための洗い場があるだけだった。替えのシャツと乾いたタオルを持って、砂と汗に塗れた身体を拭き、ソロはさっぱりした気分で居間に戻った。
食卓の前に佇む背中に声をかけると、少年が慌てた様子で振り向いた。その表情がどこかぎこちないことに気づき、男は微かに眉を顰めた。ずた袋に入れた荷物と一緒に置いておいた筈のホルスターが何時の間にかテーブルの上に移動されている。少年の手に見なれた黒い武器を見とめた瞬間、ソロは考えるより先に声を荒げていた。
「動くな!」
びくりと少年の肩が強張り、ごとりと重い音をたてて拳銃が木製の食卓に落ちた。早足で宿主に近付いた男は、素早くそれを拾いあげた。
「足に風穴を開けたいのか?」
「少し見てみたかっただけだよ」
少年は背を反らして、やや高いところにある男の顔をきっと睨みつけた。他人の物に許可なく手を出した罪悪感と、子供じみた虚勢が同居する瞳の中では、今は意地を張る子供の方が優勢であるようだった。苛立ちを含んだため息をつき、男は銃を拾いあげた。
「場所が場所なら、見つかった瞬間に撃ち殺されてたって、文句は言えないぜ」
「あんたはそんなことしないよ」
挑戦的な瞳で見つめられ、男は舌打ちをした。少年の手に銃が握られているのが目に入り、怒鳴った瞬間に思考を満たしたのは少年の身に及ぶかもしれない危険への恐怖と焦りで、その武器が自分に危害を加える可能性など少しも考えていなかった。
「それで人を殺したことがある?」
沈黙の中、唐突に投げかけられた問いに、ソロは声を失った。すべてを見透かしそうな青い瞳は、目を逸らすことすら禁じているかのようで。ごくりと唾を飲み込んだ男は、負けじと少年を睨みつけた。
根負けしたのは、結局ソロの方だった。
「…俺は、それが嫌になって軍を抜けたんだ」
低く言い捨てて、男は少年と目を合わさぬように用意された寝室に向かった。
気まずい会話から半時ほど経った頃、控え目なノックが静寂を破った。寝台に寝そべったまま返事を投げると、ルークがドアを細く開いて、そろそろと顔を覗かせる。その姿を見た途端、少年の行動一つに苛立っていた自分があまりにも大人気無く思えた。苦笑して起き上がり、ソロは出来る限り表情や声音を和らげて問いかけた。
「どうかしたのか?」
部屋に入ってきた少年は、湯気をたてる陶器のカップを二つ手にしていた。足首まで届く丈の長いチュニックは寝巻き代わりのようで、やや厚手の生地がくたりと柔らかそうに着古されている。
「お茶をいれたんだ。飲むかな、と思って」
礼を言って受け取ると、少年はぱっと顔を輝かせた。寝台に座ったまま、傍らの敷布を叩いて座れと示すと、ルークはぱちくりと目を瞬き、そして微笑んだ。
くるくると変わる表情が可笑しくて肩を揺らすと、湯気の向こうから不思議そうな瞳が見つめてきた。
「口に合わない?」
「いや、美味い」
よかった、と口元を綻ばせたルークは、すぐに神妙な顔つきになり、口を開いた。
「お茶を飲むためにきたんじゃないんだ。ほんとは…」
吸い込まれそうな青い瞳の奥に、きらりと悪戯めいた光りが垣間見えた。
「あんたが、泣いてるんじゃないかと思って」
「泣くか、阿呆」
怒る気にはならず、苦笑した男は拳で金髪の頭をこつんと軽く叩いた。笑みを見せたルークは、手の中で揺れる琥珀色の水面に視線を落とした。
「それから、勝手に拳銃に触ってごめんなさい」
やや早口で付け足された謝罪の言葉に、男は口の端を上げて小さく笑った。木製のサイドテーブルから銃を拾い上げて、バレルをずらして実弾を抜き取ると、ソロは空になったそれを少年の膝に放った。
「お子様は弾抜きだ」
わざと不満そうな顔をして見せながらも、少年はすぐに銃を手にとった。好奇心を露わにして手の中の武器を観察するルークを、温かな色を宿したヘイゼルグレーの眼差しがすぐそばで見守っていた。