あ の 空 の 彼 方 に
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
長年共に死線もくぐりぬけてきた複葉機のエンジンが、プスプスと嫌な音を立てた。幸いというべきか、下方に広がるのは一面の荒地。民家や公共の建物に突っ込んでしまう心配はなさそうだ、と複葉機のパイロットは苦々しく思った。不時着体制に切り替えようと着陸用の脚輪を下ろそうとしたが、スイッチが効かなくなっていることに気づき、パイロットはゴーグルの下で微かに青ざめた。
「くそ…」
操作を手動に切り替え、狭いコクピットで四苦八苦しながら小さなハンドルをまわしている間にも、地面はどんどん迫ってきている。舌打ちして苛立つほどにゆっくりと脚を下ろすハンドルから手を離し、機体が地にぶつかる寸前に、操縦桿を思いきり引いた。半ば降りかけた脚輪が地面に擦れる衝撃が全身に走り、男は知らぬ間に頭の中で愛機の名を繰り返し呼んでいた。
船尾についた車輪が地面に擦れて、船体がガタガタと揺れた。歯をくいしばり操縦桿を握りしめる。愛機が上げている悲鳴よりも、自身のどくどくと脈打つ心臓の音が煩く聞こえていた。燃料タンクが破損したのか、油くさい臭気が鼻をついた。声にならない呪いの言葉を吐き捨てて、パイロットは速度を落とし始めた機体の狭い座席で、焦る気持ちを押さえつけながらベルトを外した。
みしり、と不気味な音をたてて、荒野に三筋の溝を刻んだ複葉機が動きを止める。常には見られない慌てた様子で、パイロットは操縦席から抜け出した。先刻鼻をついた燃料の臭いは更に酷くなっていて、爆発の危険を訴えていた。
船体から飛び降りようとした刹那、男は一瞬だけ躊躇った。しかし、何かを振り切るようにゴーグルをかなぐり捨てると、爆風から逃れるために走り出した。
荒々しい着陸の名残を見せることなく、駆け出した長身のパイロットの視界に、人影が映った。信じられないものを見るように目を見開いた少年。白い衣服を纏ったその人物が幻覚などではないのだと、男の脳が判断するのにしばし時間がかかった。
「馬鹿野郎!伏せろ!!」
びくりと身を震わせ一歩後ずさった少年の肩を掴み、パイロットは強引にその華奢な身体を押し倒した。ガシャン、と鈍い音とともに、少年が手にしていた双眼鏡が地面に落ちた。次いで、爆発音が乾いた荒野に響き渡ると同時に、体の下に抱き込んだ少年が怯えたように息を飲むのがわかった。更なる衝撃に備え、男は無意識のうちに華奢な体躯にまわした腕に力を込めていた。
予想していた二つ目の、致命的な打撃となる筈の爆発は、いくら待っても起こることは無かった。そろそろと頭を上げ、男はプロペラの辺りから灰色の煙を上げる複葉機を振り返った。
助かった、のか…?
奇跡的に、爆発は漏れ出した燃料には引火しなかったようだった。更に数秒そのままの体勢で、かろうじて元の姿を保っている愛機を見つめていたパイロットは、ほっと安堵の息をつくとようやく起き上がった。
着古したフライトジャケットについた砂埃をはらい、男はどこか気まずい表情で、巻き添えにしてしまった奇妙な通行人を見下ろした。
男の予想に反して、少年は真っ直ぐこちらを見つめていた。額にかかる蜜色の前髪の奥から、空の青をそのまま閉じ込めたような大きな瞳が真摯な光を放っている。
「…悪かったな」
どう切り出せばいいのかわからず、少なからず動揺している自分に驚きながら、長身のパイロットは謝罪の言葉を口にした。
せめて、その何かを崇めるような目つきをやめてくれないか…
一体なんだっていうんだ、と心の中で呟いて、男は立ち上がり少年に手を差し出した。しかし手を差し伸べられていることにも気づかないように、男の肩越しに見える太陽に目を細めた少年は、次の瞬間予想だにしなかった言葉を口にした。
「あなたは、天使?」