Part 2.
しばらくして、静かに腕の中に納まっていた少年の腹が空腹を訴えた為、インディはまず埃だらけの少年をバスルームに押しこんだ。不思議そうに蛇口を見つめるルークに湯の出し方を教えてやり、タオルを渡してドアを閉めてしばらくすると、水音と共に嬉しそうな歓声が聞こえてきた。一体この身元不明の未成年はどんな僻地から来たのかと首を捻りつつ、男は宿の泊り客のための食堂になっている階下へと降りていった。
宿を経営する女性に、朝食の注文にかこつけて発掘作業の助手として青年を雇ったことを告げ、洗濯物が溜まってしまったので服を貸して欲しいと頼むと、快活なおかみは笑いながらインディに男物の服を一式押しつけ、現地訛りの濃い英語で服の費用は宿代につけておくと冗談を言い、後で洗濯物を引き取りに行くと告げて、逞しい腰を揺らしながら台所へ戻っていった。
少年には少々大きすぎると思われる着替えを手に部屋に戻ると、ちょうどルークがおそるおそるバスルームから顔をのぞかせたところだった。服を手渡してやると、ルークはぱっと顔を輝かせ、『ありがとう』だと思われる言葉を口にしてすぐに扉を閉めた。
やはり聞き取れなかった。少年の話す言葉は、今まで聞いたことのある言語のどれとも一致しない。それでいて、発音が難解であるわけでもなく、イントネーションが複雑なわけでもない。ため息をついて、ジョーンズ博士は考えることを放棄した。自分は遺跡の調査にきたのであって、言語を学ぶために来たのではないと自分に言い聞かせながら。
程なくして出てきた少年は、少々不満げな表情を浮かべて、長すぎる袖や裾をまくりあげた格好でバスルームから姿を表した。眉尻を下げてこちらを見上げてくる姿は、恐らくルークを実際の年齢よりあどけなく見せているのだろう。つい笑みを浮かべそうになり、慌てて表情を引き締めると、インディは真面目な顔で、似合うじゃないか、とだけ言ってやった。しかしルークは抑えられた笑みを敏感に感じ取り、憮然として何事かを呟きながらずりおちてきた袖を再び捲り上げた。
「馬鹿にしてるわけじゃない、服が大きすぎただけだろう」
片手でやり難そうに袖を弄っている少年を手伝ってやり、男は拗ねた子供を宥めるように頭を撫でると、食事の時間だ、とルークを伴い宿の薄暗い階段を再び下った。
朝食どきを過ぎた食堂は閑散としていて、窓辺のテーブルにつくと宿主の女性がすぐに皿を持ってやってきた。服に着られている少年を見るなり、彼女は目を丸くして発掘作業の助手というからもっと屈強な若者を想像していたと早口に言った。
「サイズを聞いてから出してあげればよかったねぇ」
自分の勘違いに笑いながら、彼女は再びずりおちていたルークのシャツの袖を捲り上げた。おかみの勢いに圧倒され、彼女と服とを見比べている少年に、インディは目配せした。
「Thank youだ、ルーク」
『ありがとう』の部分をゆっくりと強調して言ってやると、ぱちくりと目を瞬かせたルークは教授の狙いを察し、女性に向き直ると、はにかみながら少々たどたどしい礼の言葉を口にした。
宿主が少年を気に入ったからかどうかはさだかではないが、何故かその日は、頼んでいた食事の他に、インディにはコーヒー、ルークにはグラス一杯の冷たい飲み物がついてきた。
目の前に出された食事にさえ、ルークは興味を示した。男が口にするのを見てから、一つ一つの料理を口に運んで、これは好き、これは嫌いという感情をはっきりと表情に表していく少年を、インディは飽くことなく眺めた。
どうやらお気に召さなかった料理を口に含んで目を白黒させる姿に思わず笑うと、サービスでつけられたジュースで口の中のものを嚥下した少年がこちらを睨み返して、そして一緒に笑い出した。しかしその笑みは徐々に、昨夜から何度も見せた切なげな表情に塗りかえられていった。とうとう目を伏せてしまった少年に、男は昨夜から抱きつづけていた疑問をぶつけた。
「ハン、というのは俺に似てるのか?」
皿に残った料理の残骸をフォークでつつきまわしていた少年は、『ハン』という一言にはじかれたように顔を上げた。
ルークはしばし考え込むと、ナイフを手に取り、男の目の前にかざした。銀色の細長い平面に映る姿とインディとを交互に指差し、静かに何事かをつぶやいた。
鏡に映ったようにそっくりだ、ってことか。
自分で尋ねておきながら、そこまで似ていると言われてしまい、インディは妙な気分になった。そんなことが有得るのだろうか。確かに、世界にはそっくりな人間が必ずいると言うが──
ことり、と音をたててナイフをテーブルに戻した少年は、向かい合って座っている相手の反応をうかがうように伏せていた目を上げた。
自分とそっくりだというのだから、その『ハン』という人間は当然、男…なのだろう。しかし、少年が時折り自分に向ける眼差しは、まるで──
そこまで考えて、インディはこれが自分の思い過ごしかどうか確かめるように、じっと少年の瞳を見つめ返していた。妙なことが続いた所為で神経がたかぶって、自分は自意識過剰になっているのだろうか。
しかしそこに宿っている光はやはり、友人や家族といった存在に対するものというよりも、想い人に向けられるそれに近いように思えた。不思議と、不快ではなかった。目の前の少年に憐憫こそ感じはすれど、侮蔑や嫌悪といった負の感情はまったく湧きあがってこなかった。
「インディ…?」
ただひとつ覚えた名を呼ぶ少年の髪に手を伸ばし、まだ少しだけ湿り気を帯びている蜜色の一房を弄びながら、インディはぽつりと呟いた。
「お前はどこから来たんだろうな、ルーク…」
◆ ◆ ◆
食事が済むと、インディは自分の居場所をまったく把握していない様子の少年を街へ連れ出した。照りつける日差しの下、用心のため巻いてやったターバンから垂れ下がった布が、狙い通り少年の顔をちゃんと隠していることを横目で確認しつつ、並んで街の大通りを歩いた。四肢を拘束された状態で発見された少年を連れて人通りの多い場所をほいほい歩くのはなるべく避けたかったが、立ち並ぶ露店を目にした時のルークの嬉しそうな表情を見てしまったインディは、薄暗い路地へ足を向けることが出来なかった。
目深に被ったいつもの帽子の下から、警戒を怠らず周囲を見渡しつつ、男はシャツで隠すようにしてベルトに挟んだ銃の感触を確かめた。そんな自分とは対照的に、ルークは無防備にきょろきょろと一度になにもかもを見ようとしていた。苦笑を浮かべつつも、彼はそんな少年を微笑ましい気分で見守った。
キラキラと多彩な輝きを放つ工芸品や色とりどりの瑞々しい果物に特に目を奪われている少年とは対象的に、考古学者の男は出土品の欠片らしきものを並べて売る店を見つけては商品に目を走らせた。目にするものはガラクタばかりで、普段なら見向きもしないような店ばかりだったが、隣にいる好奇心のかたまりに刺激され、インディは自分なりにこの一風変わったウィンドウショッピングを楽しんでいた。
途中で乾したナツメを一袋買い、興味深げに見つめてくる少年の目の前で一つを口にして見せると、ルークもその果物を一つ手に取った。小さく齧って味を確かめている様子が可笑しくて笑うと、少年は少々怪訝な顔で見上げてきた。それに対して男が弁解する前に、彼らの足元で小さな鳴き声がした。
小さな服を着たテナガザルが、ルークの長すぎるズボンの裾を引っぱりながら、見下ろす二人に何かをねだるようにキイと鳴いた。通りの端に布を敷き、コインを入れる空き缶と弦楽器とともに座りこんでいる男が猿の飼い主らしかった。
「それを欲しがってるんじゃないのか」
猿を指差した少年が問いらしき言葉を口にしたのを見て、インディは彼の手の中の食べかけのナツメを示した。小動物の目的が手にした果実なのだと指摘され、少年はわざと一瞬しかめつらを作った後、気をとりなおしたように屈みこんで、空腹を訴える獣に何ごとか話しかけながら微笑んで、ナツメを手渡した。食物をあっと言う間に胃袋に収めたその小さな訪問者は、しゃがんだままだったルークの腕から肩へと素早くよじ登った。
驚いたように声を上げた少年は、猿を肩に乗せたまま立ちあがり、困ったような笑みを浮かべてインディの方を向いた。毛むくじゃらの珍客が肩の上で身動きする度にくすぐったそうに笑う少年を見ながら、袋からもう一つ果実を取り出して与えてやると、猿は嬉しそうに一鳴きして、ルークの肩から飛び降りて、来たときと同じように素早く走り去っていった。少し残念そうに離れて行く小動物を目で追いかけていたルークを促し、歩き出したインディは肩をすくめて言った。
「お前の愛嬌の効果は人間限定らしいな」
首をかしげる少年を安心させるように、なんでもないよ、と笑顔を向けて、米国出身の考古学者は今回の旅の本来の目的である遺跡へと足を向けた。