Part 3.
町外れの小屋でいつもと同じようにロバを借り、預けてあった工具類や水筒、採掘物を入れるケースを乗せて、インディたちはのんびりとした歩調で遺跡へと向かった。
道すがら、伝わらないとわかっていながら、この遺跡を選んだ理由や、少年を見つけた経緯を説明してやると、少年は驚くほど真剣な表情で長身の考古学者の話を聞いた。ターバンが作る影の下から真摯な瞳を向け、耳慣れない異国の言葉からなにかを読み取ろうとするように、ルークの青い瞳はひたむきにインディを見つめていた。
途中、日陰を見つけて立ち止まり、まだ冷たい水筒を差し出すと、ルークは心得たように一口だけ水を呷り、ほとんど重さの変わらないそれを男に返して寄越した。干上がった大地で、水分がどんなに大切かわかっていることを示す何気ないその行動で、インディは性懲りも無く金髪の少年がどこからきたのか思い悩んだ。
「…地理はほとんど教えたことがないからな」
そうひとりごちると、ロバにも水をやり終えてその無口な運び屋の鼻面を撫でていた少年が首をかしげた。
恐れていたような未知の集団からの襲撃もなく、たどりついた遺跡は昨日と同じく、何も妙なところはないように見えた。降り積もった年月を感じさせる清廉な空気と静けさだけが、二人と一頭を迎えた。
ロバを岩陰に繋いで工具類を降ろすと、インディは軽い荷物を持たせたルークを連れて、古い人工の洞窟に足を踏み入れた。岩壁をくりぬいて出来たその遺跡は、地元の人間なら誰もが知っている場所だったが、正式な遺跡調査は一度もされていない場所だった。
ジャケットの胸ポケットから取り出したライターで松明を灯して、荷物を抱え直すと、インディは肩越しに少年を振り返った。神妙な顔でついてきている臨時の助手の様子に表情を緩ませ、男は歩を進めた。
乾いた空気は洞窟の内部に行くに従って温度を下げていく。インディは昨日作業を止めた場所まで進むと、荷物を降ろした。
「降ろしていいぞ」
抱えている空のケースをぽんぽんと叩いて地面を指し示してやると、ルークは頷いてさほど重量のない箱を工具袋の隣に置いた。ターバンが暑いと感じたのか、ぐるぐると頭に巻かれている白い布を解き、少年はぼさぼさになったくせのある髪を手櫛で梳いた。
「ルーク、お前はここに倒れてたんだ」
身振り手振りで説明してやると、ルークは頷き、地面に膝をつくと、崩れかけた岩壁に手をあてた。意外な行動に面食らい、インディは薄暗い洞窟の中でくすんだ砂色に見える頭を見下ろした。瞳を閉じ、何かを探ろうとしている少年の周囲の空気が変わった気がして、男は思わず自分の手を岩肌から放した。どこか張り詰めた空気の中、考古学者は幾度かルークの名を呼んでみたが、跪いたままの少年はふざけている様子もなく、微動だにしなかった。
落ちつかない気分を誤魔化すように、インディは帽子を目深に被り直した。侵してはいけない領域に足を踏み入れたようだ、と内心で呟いた自分自身に呆れて首を振りながら、発掘作業に取り掛かろうと奇妙な光景に背を向けた瞬間、目の端に映った少年の姿が背景に溶け込んだ気がして、男は振り返った。
人間が壁に吸い込まれるわけもなく、ルークは変わらずぴくりともせずにそこにいたが、心臓が早鐘を打ち、インディは咄嗟に壁に押し当てられている少年の手を掴んでいた。
戸惑いを孕んだ声が上がり、困った顔で見上げてきた青い瞳と視線が交わったとき、我に返った男は白昼夢でも見ていたかのようにぱちぱちと瞬きをした。かなりの力で細い腕を引き上げていたことに気づき、インディは慌てて手を放した。
「…悪かった」
今のはなんだ、と己に問いかけ、言い知れない不安と複雑に混ざり合う混乱を抱えたまま、インディは洞窟の床に散らばる荷物の元へ戻った。いつも通りその場に屈み込んで、ピックや刷毛が入っている皮のケースの紐をほどくと、男は広げた厚手のキャンバス地の上に工具類を並べていった。ぱたぱたと背後で足音がして、ルークが傍らで膝を折り、考えなくても手が動くほどに身についてしまった作業を淡々とこなす考古学者の手元を覗き込んだ。
先刻の怪しげな瞑想を続けるつもりは無いらしいその様子に、インディはほっとした。もの珍しそうに工具を手にとる少年に、名称や使い方を説明してやりながら、男は昨日中断した仕事に再びとりかかった。
◆ ◆ ◆
外で食事をとって同じ安宿に戻り、備え付けのシャワーで埃を洗い流した二人が就寝してしばらく経った深夜。枕元に誰かがいるのを感じて、インディは目を閉じたまま覚醒した。呼吸を乱さないよう神経だけを研ぎ澄ませ感じ取った気配は、殺気とは異質な馴染みのあるそれで、男は小さなため息と共に身体の緊張を解いた。
どうしたんだ、と問いかけようとして目を開けると、暗がりの中でも存在感を失わない少年の瞳が男を見下ろしていた。窓から射し込む月の光があどけない顔を縁取り、彫刻めいた影を作り出して、色の無いその光景は酷くリアリティに欠けていた。
ベッドを譲るつもりでいたインディの予想を裏切り、頑なにソファで寝ると態度で示した少年が寝心地の悪さに根を上げたのだろう、そんなことを考えた男は、次の瞬間降って来た柔らかな感触に目を見開いた。
あたたかな唇はすぐに離れ、ぎこちないその動作が口づけだったのだと理解した時には、少年の瞳は元の位置に戻っていて、今にも涙を零しそうに潤んでインディを見下ろしていた。
先刻まで触れていたルークの唇が微かに動いて、何事かを呟いた。相変わらず言葉は理解できないままだったが、少年が何を訴えようとしているのかは容易に伝わった。切なげに歪められた顔が酷く庇護欲をそそり、何故だかずきりと胸が痛んだ。
『ごめんなさい』
幾度も同じフレーズを繰り返す少年の頬に、やっと落ちつきを取り戻した考古学者の大きな手が伸びた。
「あやまらなくていい、ルーク」
とうとう雫になって頬を伝った涙を親指で拭い、少し長過ぎる蜜色の前髪をかきあげてやると、目を閉じた少年は小さくしゃくりあげた。
ブランケットの下に引っ張り込んだ身体は、夜になって下がった室温をそのままうつしとったかのようにひんやりと冷たかった。インディは温もりを求めて密着してくる少年を抱き寄せ、宥めるように背中を撫でてやった。鼻先で揺れるくせのある髪に口づけると、緩慢な動作で少年が俯いていた顔を上げた。
「イン…ディ」
擦れた声で途切れがちに名を呼ばれ、インディは抱き込んだ身体にまわした腕の力を少しだけ強めた。男のそれよりもやや小振りな手が頬に触れ、繊細なガラス細工に触れるように唇を辿り、その下に残る傷跡をなぞっていく。いとおしむようなその仕草で、謝罪の本当の意味を悟り、インディは自嘲気味に唇の端を吊り上げた。
この少年が欲しているのは、自分ではない。
抑揚の無い声で、ルークがまた同じフレーズを繰り返した。続いた言葉には、隠し様のない切なさが込められていて、妙な胸騒ぎを感じた。青白い炎のように胸の奥に灯った不安を打ち消そうと、金髪の少年を抱きしめる腕に更に力をこめて、インディは夜闇の中、戸惑ったように強張る小柄な体躯をきつく抱きしめたまま、再び眠りについた。
◆ ◆ ◆
まだ濃い闇に包まれたままの室内に空虚な沈黙が落ちて、男の意識は浅い眠りからゆっくりと現実へと浮上した。窓から射し込んでいた青白い月の光が無くなったおかげで、目が暗がりに順応するまで時間を要した。まだ眠ったままの身体を叱咤して、上半身を起こすと、予備の毛布が空になったカウチを覆っているのが目に入った。
得体の知れない不安と物足りなさの原因を思い出して、寝台の傍らを手探る。まだ温もりが残るシーツにぐしゃりと爪を立ててブランケットを跳ねのけた男は、ベッドを飛び出し、椅子の背にかけてあったシャツに手を伸ばした。
ルークがいなくなることは、あらかじめ知っていたような気がした。
実弾がこめられていることを確認した銃をベルトにさして、部屋を出た男は帽子を目深に被り、走り出した。少年の行き先はわかっている──あの遺跡だ。
歴史が眠る洞窟の入口で男が目にしたのは、奇妙な光景だった。いくつもの冒険をくぐりぬけてきたジョーンズ博士にとっても信じ難いその状況の中、いちばん冷静なのは、頼りない外見をした丸腰の少年だったかもしれない。夜明けに近付いていく清廉とした静けさの中、ぴりぴりと緊迫感が漂い、徐々に明るくなりつつある景色はそれでもまだ色を失ったままで、無機質な印象を与えていた。
ヘルメットというよりも、溶接作業用のシールドに似た奇妙な兜を被った人物が、大ぶりの自動小銃らしき武器をルークに向けていた。頭で考えるよりも早く、ベルトから抜いた45口径を構え、インディは敵に銃口を向けた。場にそぐわない衣装をまとった物騒な見かけの人物は、登場人物が増えたことに気がつくと、なぜか一瞬だけ動きを止めた。続けて二発、愛用のレボルバーの引きがねを引くと、銃声が敵の背後に聳え立つ岩壁にこだまして、静まり返った空気をびりびりと震わせた。
鈍い音がして、弾丸は敵の身体を貫通することなく鎧に弾かれていた。何も自衛の手段を持たないルークの元に駆け寄りたい気持ちを抑え、インディは一旦岩陰に身を隠した。聞いたことのない銃声が反射的なその行動を僅差で追いかけ、金属弾ではないなにかが臨時の防壁を焦がす音が考古学者の耳に届いた。
ルークが薄汚れたヘルメットに向かって何かを叫んだ。続いて聞こえてきた敵の台詞に、インディは目を見張った──二人が確かに、同じ言語で会話をしていたからだった。
緊張を吐き出すように長い息をつき、物影から再びレボルバーを敵に向けた刹那、驚くほどの的確さで銃身を撃たれ、狙いを失った弾丸はあらぬ方向に飛んでいった。衝撃を受け武器を失った手首を握りしめ、悪態をつくと、拡声器を通したかのようにざらざらとした声が聞き慣れない言葉をつむぎながら徐々に近付いてくるのを知り、インディはベルトに下がっている鞭に手を伸ばした。
しなやかな皮の武器が空中で唸り、小気味良い音を立てて武器を握る敵の手甲に巻きついた。力任せに鞭を引き、出鱈目に乱射された敵の小銃の音にも怯むことなく、皮製のグリップを握ったまま、インディは地面に落ちていた先刻手放したばかりの自分の銃をルークのいる方へ思いきり蹴った。
「ルーク!」
飛んで来たレボルバーに飛びつくようにして拾い上げた少年は、お世辞にも立派とはいえない構えで銃口を敵に向け、一瞬も無駄にせずに一撃を放った。45口径の衝撃に耐えきれず不安定なステップで数歩後ずさった少年を視界の端に捕らえ、そちらに向かって走りながら、インディは敵が亀裂の走ったアイシールドに手をやり、一瞬だけよろけたのを目にした。戦意を取り戻すためか小さく首を振ると、鎧の男はすぐに膝を折り、脛に巻かれたホルスターから、奇妙な形の小型の銃を抜いて真直ぐに銃口をルークへと向けた。
少年をつきとばすのと、甲高い銃声が響いたのは同時だった。
横腹にどん、と独特の衝撃を受けて、見えない手に突き飛ばされるように身体がぐらりと傾いだ瞬間、少年の悲鳴が夜明け前の空を貫いた。地面にしたたかに身体を打ちつける寸前、耳慣れた銃声に続いて、立ちあがった敵の兜に二発目の弾丸が当たり、再びよろけた男が背後の岩壁に吸い込まれて姿を消すのが見えた。スローモーションのようなその光景と重なり、やけに冷静な『そんな馬鹿な』という声にならない呟きが頭の中に響いた。
俺は死ぬのかもしれない、という現実感がまるでない思いが脳裏を過った。恐怖感や焦りは無く、ただ攻撃を食らった箇所から広がる酷い痺れが不快で、インディは眉をしかめた。
突き飛ばされ転んだ箇所から少年が這いずって近付いてくるのが聞こえ、蒼白になったルークの顔が視界に入ってきた。
「ルー、ク…」
呂律のまわらない舌でどうにか少年の名を呼ぶと、泣きそうな顔がさらに歪んだ。起きあがろうとする男の胸を押さえて、金髪の戦士は早口に何かを言った。涙混じりのそれは、動くなと命令しているようだった。インディの手をとり、少年は男の無骨な指をきゅうと握り締めた。
「見かけに、よらず──腕がいい、な…お前の、援護で、助かった。ありがとう、な」
理解することが出来ない言葉で贈られた賛辞の中に、一つだけ教えられた感謝の言葉を聞き取り、目を見開いたルークは、潤んだ瞳を細めて微笑んだ。
開いている方の少年の手が、熱をはかるようにひた、と男の額に押しあてられた。途端、即効性の麻薬のような睡魔に襲われ、インディは理由もわからないまま、霞んで行く切なげな表情を重たい瞼を押し上げ必死で目に焼きつけようと試みた。
気を失う直前に聞いたルークの言葉は、『さよなら』と言っているのだと、わかったような気がした。
目を覚ますと、日は既に登りきっていた。すぐ傍の地面を照らす日差しの強さから、容赦無く照らしつける太陽が中天にまで到達していることを知り、男は獣じみた呻き声を上げた。頭を抱えて起きあがると、腹部に鈍い痛みが走り、インディはおそるおそるシャツを捲り上げた。
死んでしまうかと思った割に、銃創ともいえないようなその痕跡は大したことはなく、したたかに殴られたときに出来るそれに似た赤い痣が、腹部の左側で自己主張しているだけだった。
夢だったのではないかと、そう考えてしまうことは簡単だった。しかし、良くも悪くも超自然的な出来事に遭遇することが常人より多いこの大学教授は、不可思議な出来事の記憶を事実として受け入れるだけの許容量を持ち合わせてしまっていた。
鞭と一緒に傍らに置かれた帽子の下から出てきた自分の銃を手にとり、中身を確認すると、弾丸は記憶のとおり、一発しか残っていなかった。気を失っている間に寝かされていたのが日陰だったことや、ばらばらに落ちていた筈の持ち物がすぐそばに集められていたことが、たしかに少年の存在を証明していた。
銃を元どおりベルトに射し、鞭をくるくるとまとめて、痛む節々を叱咤しつつ立ち上がると、酷い立ちくらみに襲われて、男は再び蹲る羽目になった。諦めたように尻をついて足を地面に投げだし、深呼吸を繰り返して視界がクリアになるのを待ちながら、インディは天を仰いだ。
見上げた空は、少年の瞳と同じ色をしていた。