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 飼育小屋の前に、ぽつりと尚紀が立っていた。
 こちらを見て、「おかえり」と言った。それから、こちらが何も言わないので不思議そうな顔になった。
「どうしたの? 渡瀬くん。うさぎ、見つかった?」
「……それはこっちのセリフでいっ!」
 葵は怒鳴った。
「うさぎはどこだよっ!」
 尚紀は目を見開いた。その瞳に、葵のあとを追いかけてきたらしき人影が写り始める。
「……渡瀬くん、みんな置いてけぼりにしてきちゃったんだね。足が早いんだから、すこし加減して走ってこないとダメだよ」
「新居っ!」
 耐えられなくなったように葵が尚紀の胸ぐらを両手でつかむ。
「答えろよ!」
「渡瀬くん」
「答えろ! なに言ってんだそんなこと知るかって……答えやがれっ!」
 葵の声が震えた。
 尚紀は、やわらかい笑顔を浮かべて、口を開こうとした。
 瞬間。
「葵兄!」
 どかっ、と葵の背中にとびついてきたのはあざみだった。
 その衝撃で、葵は手をゆるめる。
 離れようと思えば離れられたはずだった。
 だが、尚紀はそのまま、やってきたあざみたちの顔を順に眺めて――最後に1番近いところにいる人物に視線を戻した。
「そうか……なんだ、簡単にばれちゃったんだね」
「……っ!」
 葵は尚紀を突き飛ばした。ずざざっと、地面がこすれる音。
「兄ちゃん!」
 あざみの非難の声。
 しりもちをついた格好の尚紀が、けほ、と1回だけせきこんだ。
「ふざけんなよ!」
「…………」
 尚紀と葵が睨みあう。もっとも、睨んでいるのは葵のほうで、尚紀は静かに見上げているだけだ。
「ど、どうして……」
 梢がおそるおそる口を開く。
「どうして、わたしがうさぎ……知ってたの?」
「あのふたりだけど、塾があるから先に帰るって」
 梢を見て、尚紀が言った。
「僕、あのふたりと塾が一緒なんだ。……っていっても、たまに見かける程度だから、むこうはたぶん覚えていないだろうけど。それでも、話をきいたり吹き込んだりするのって、そんなに難しいことじゃないよね」
 独り言のように尚紀は続ける。
「例えば、小学校はどこか、とか。飼育委員でちょっとめんどくさがりで、よく寄り道するとか。はまってるおもちゃの発売日はいつかとか。同じ委員会の子に真面目な子がいるとか。そういう話きいて。星火の生徒はこんなひとがいるんだよ、ってちょっとお返しにしゃべったりして。それが人づてに伝わったりして」
 ウワサに尾ひれがつくって、ほんとだね。
 尚紀が口の端をあげる。
「でも、先生だって……っ」
「番号を調べて小学校に電話して適当なことを言うぐらいは、僕もできるんだ」
 ゆっくりと立ち上がって、ふと思い出したように、尚紀は葵を見た。
「そうそう、先生、今日会議があるからこられないって、言ったっけ」
「……それ、きいたの、いつだ?」
「今日の昼休み」
 尚紀はぱたぱたとズボンについた汚れをはたいている。
「だから、遅れてきたのは――いわなくても、わかるよね。子どもの友だちの顔って知らないものなんだね。親ってみんなああなのかな?」
「どうしてこんな……悪ふざけにだってなあっ、限度ってもんがあるんでいっ!」
 あざみはまだ葵の後ろにしがみついていた。
 しがみつきながら、兄の体の横からすこしだけ顔を出して、尚紀を見ていた。
 だから尚紀の静かな眼差しを見た。
「悪ふざけなんかじゃないよ、渡瀬くん」
「なんだと?」
「ふざけてなんていないよ。ふざけてできるようなことじゃないよね」
 真摯すぎる口調。
 あざみはぎゅっと葵の制服をつかむ手に力をこめた。

                      ☆

 未国は優や緋琉亜とひとかたまりになって、葵たちを見ていた。
 声もなにも出せなかった。体も、動かない。
「あそこに」
 尚紀がすっと指差したのは、飼育小屋のさらにむこう、土が剥き出しになっているところだった。
「なにを埋めたか、覚えてる? 渡瀬くん」
「……うさぎだろ。一緒に、みんなで一緒に埋めてやったんだ」
 もらってきたうさぎかと、一瞬勘違いして未国は身を震わせる。
 が、すぐに夏に死んでしまったうさぎたちのことだと気がついた。
「そう、僕たちのうさぎ」
 尚紀はそちらに顔を向けたまま、横目で葵を見やる。
「渡瀬くんは、覚えてたんだね。でも――忘れちゃってたひともいるんだよ。どうしてかな? あんなに可愛がってたのに。新しいうさぎがくるって、うかれてたからかな?」
 視線が墓に戻る。
「新居……」
 葵が呼ぶ。なぜ呼んだのか葵にもわからない。
 そして、その呼びかけに尚紀は応えない。
「あの時……埋めるときに、嫌がってた子もいたよね。どうしてかな? あんなに可愛がってたのに。動かなくなったら、もう触れないなんておかしいね。うさぎはうさぎなのにその子にとっては違うんだよ、もううさぎじゃないんだよ」
 いらないものなんだよ。
 尚紀は言う。
 埋めるのもなんでかって言ったら、きっと見たくないから。どうしてかな?
 そうして。
「そうしてね、渡瀬くん」
 忘れてしまうんだ。
 その子にとってうさぎはなんだったのかな。もう動かなくなったら、いらないなんて。飽きちゃったおもちゃを捨てる子どもと一緒だね。
 おもちゃをゴミ箱に捨てるみたいに、動かないうさぎは埋めてしまうんだよ。なかったことにするんだ。目をつむって。
 そうしたら、ゴミ箱のゴミは誰かがそのうち持って処分してくれるから。
「でも、僕は忘れない。だから、みんなにも忘れて欲しくなかったんだ。新しいものは古いものを消してしまうから」
「うさぎ……っ」
 梢が思い出したように声をあげる。
「……どこに、やったのっ?」
「そうか、知らないよね。あっちに、焼却炉があるんだ」
 淡々とした言葉に、梢が大きく目を見開く。
 両手で口をふさいで、その場にしゃがみこんだ少女の真下に、ちいさな丸い染みがいくつもうまれてゆく。その隣で、武が立ち尽くしている。
 未国は悲鳴を必死で飲み込んだ。優と緋琉亜がそれぞれ息を飲む音がきこえた。
「――嘘つけ!」
 呆然としているあざみを振り払って、葵が尚紀につかみかかった。
「おまえがっ! んなことするかあっ! 1番うさぎが好きだったのおまえだろおっ!」
「好きだった……」
 尚紀はゆっくりと噛みしめるように、言葉を繰り返す。そして、そうだね、と言って。
「でも、僕はこの手であそこに埋めたんだ」
「それはおまえがうさぎを大切に思ってたからじゃねえかっ!」
「大切……」
 葵につかまれていることを気にする様子もなく、尚紀は自分の手を眺めた。
 そのまま、「渡瀬くん」と呟くように。
「それじゃあ、父さんが母さんを置いていったのも母さんが僕を置いていったのも、そういうことなのかな? 僕の手を離して、置き去りにして――大切な……ものだと……思っていたから?」
 葵が、びくりとする。
 その振動が伝わったかのように、尚紀の唇が震えた。
 そして、その震えが言葉になった。
 違うよね、と。

                         ☆

「……だからってえ!」
 沈黙を破って、梢の声が響いた。
「うさぎ……っ、うさぎに……っ」
 のどにひっかかったかのように言葉が途切れる。
 尚紀は梢を見て、何かの説明をするように言った。
「……星火の焼却炉はね、使うのは月曜と木曜の午前中だけなんだ。だから、今は火がついていないよ」
「…………!」
 梢が顔をあげた。
「あざみっ! 一緒に行って、案内してやんな!」
 葵が尚紀をつかんだまま、振り向きもせずに言った。
「でも、兄ちゃ……」
「早く行けよ!」
 あざみはぐっと唇をかみしめた。
 行きたくなかった。でも――。
「姉ちゃん、こっちだよっ!」
 梢に視線を合わせて、あざみは葵たちに背を向け、走り出した。

 

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