午後の稽古を終える時刻には、全員が汗に濡れそぼり、手足といわず顔といわずアザをこしらえ、精根尽き果てる者が大多数であった。一年生など、黙想の姿勢さえできないほど打ちのめされた男子もいる。それでも腕利きの三年生は、呼吸を調えて肉体を律する術を心得ている。
べたつく汗を流して作務衣に着替えた竜胆は、宿房で仲間のなか気を昂じている雅彦を見つけた。拳で欄干を叩いて、苛ついているのが遠目にもわかった。それを同級の者が宥めているらしい。
先ほどまでの稽古で、加納に打ち倒される野田を見ていたから、なぜそうして荒れているかは察しがついた。一声かけてやろうと思い近寄ろうとする足を、野田の声が止めた。
「……赤城さんも竜胆さんも、なんであんな奴を……」
なんとなく襖の蔭に隠れてしまった。
この状況では名前を出さずとも誰のことかわかる。そんな野田を、彼と同級の吉川たちがあれこれと宥めたり諭したりしているようだ。
一部始終を盗み聞くつもりは全く無いので、静かにその場から立ち去って真弓は宿房や境内を見まわることにした。
(それにしても……)
あんなことを口にするとは思わなかった。
野田は決して弱くはない。星火の初等部から剣道道場に通い、弛まぬ修練を積み重ねてきた。努力のできる男だと真弓も赤城も認めている。それが今年春、入部したばかりの同級生に為すすべなく敗れた。それが加納洋人だ。野田は以来なにかと挑戦的になり、あのような苛立ちも見せるようになった。
認めたくないというのが理由のひとつだろう。加納という男は、入部するまで重い木刀はおろか竹刀を振るった経験もないという。野田の十年ぶんの修練とプライドは全く否定されてしまった。
真弓にも不思議だったが、ある日その理由がわかった。
四天王の一、望月剣之進が本人から直接に聞いたところ、加納はほぼ十年にわたる時間をオーストラリアに住む祖父母と過ごしたという。祖父というのが旧帝国海軍の従軍経験をもち、また祖父と懇意にしている近所の青年が海兵隊の一員であった。青年はヒロトという少年を何故か気に入って、格闘を含む様々な生存術を教えたという。
「学校の勉強より楽しかったと言って、笑ってました」
そう報告されて合点がいった。彼もまた年月を経て才能を育ててきたのだ。
彼の正体を判ったことで、真弓も疑いを解き、他の部員と隔てなく接しようとしてきた。
しかし、ここ最近は加納について面妖なうわさもささやかれていた。曰く、路地裏でチンピラ相手に半殺しにするほどの喧嘩をしているとか、寮を抜け出して夜の盛り場に出かけているとか……
他愛のない噂ではある。
しかし、その本人は昼の稽古が終わるや否や姿を消していた。
二年生を何人か捕まえて、見てないのかと尋ねても、芳しい答えは返ってこなかった。
(夕食時に何をしているんだ)
「どうしたかな」
不意に声をかけられた。
振り向くと、住職が赤城を伴って立っていた。慌てて一礼する。
「実は部員が一人、行方知れずで……」
「ほう、ついに脱走したのか」
住職が言う。
確かに、この合宿に耐えかねて四神寺から脱走を図る部員は毎年のようにいる。入部から夏までの間に淘汰されて部に残った強者でも、そうする者が出てくる。もちろん発見され連れ戻されれば、部の伝統に従い部長や先輩の、果ては住職の説教を正座で数時間の長きにわたり聞かされることとなる。小僧の頃から四神寺の作務をしてきた住職に言わせれば、先輩から愛の鞭を頂戴しないぶんだけ昔より優しくなったのだという。
「いえ、そうではないと思うんですが」
「ねえ、誰がいないの?」
赤城が話に加わってきた。
「加納」
「おお、彼か」
簡潔な答えに住職が声をあげた。真弓の顔が訝げに歪み、赤城がきょとんとした表情となる。
「あ、そういえば御存知なんですよね。お話してらしたって、うちの者が……」
「少し話をしてやったが、うむ、趣のある少年だったよ。熱心に聞いてくるので、祠のことを話してやったが」
「祠?」
「裏手から行ける道がある。探しても見つからないなら、もしかするとそこに行ったのかもしれないの。見てみたいと言うとった」
「そうですか。そっちを探してみます」
「あたしも行くよ」
赤城の意に真弓は鼻白んだが、強く止める理由も無かった。まあ留守中何かあっても鷲頭や望月に面倒ごとを押しつけてしまえばよかろう。
住職は二人に裏の道を教えてやった。
「迷うような道ではないが、そろそろ暗くなる。深く入りこまぬように」
道があること自体は知っていたが、何処へ通じるのかは気にしなかったし追求する必要も無かった。
軽く傾斜した上りの細い道だった。赤城と真弓ふたり横一列に並ぶと、右手側の斜面に転落し茂みに突っ込んでしまいかねない。真弓は先に立ち、すぐ後に赤城の雪駄の音を聞きながら上っていく。
野生植物の放つ濃密な匂いと熱い空気が、肌にまとわりつく。
「おまえまで来ることもないんじゃないか」
真弓が後ろに目を遣りながら話しかけた。
「だって心配じゃない。それに、鷲頭や望月もいるし大丈夫だよ」
「まあ、たまには仕切らせてやるのもいいか」
たまには……そう言ってからあることを思いだした。
「引退まで、あと幾らもないんだし」
「うん」
「来年から、期待できるのかねえ」
「決まってるでしょ。吉川も野田も、それに加納くんだっているんだよ。あたしたちより強くなっちゃうかもよ」
「随分と奴のことを買ってるんだな」
「竜胆だって、そうでしょ?」
沈黙で答えた。素直に肯くことが出来なかった。
「ねえ竜胆」
不意に、呟いた唇と真っ直な視線を振りかえり、真弓は軽く圧倒される。
「彼のこと嫌い?」
なぜか、正直に答えたくなかった。だから、こういった。
「奴の素行が噂になってきている」
「寮を抜け出して、街に繰り出して遊んでるとか、星火生を巻きこんで他校の生徒やチンピラ相手に 喧嘩をふっかけているとか……最近になって言われだしてきた」
「それ、信じてるの?」
赤城の声が硬質味を帯びた。
「知らなかったよわたしは。そんな噂をされてることも、竜胆が鵜呑みに信じてしまうような奴だったこともね!」
「い、いや」
もとより真剣に訴えたわけではない。
「彼が皆と打ち解けないところがあったって、そんな風に言うことないじゃないか。今の言葉、引っ込めろよ!」
今度は怒気をはらんで詰め寄ってくる。気迫に打たれ、真弓は自分の心根に恥じ入った。
「わかった。もう、そんな風には思わないよ。あいつは大事な仲間なんだったな、間違いなく」
「うん」
そして再び歩き出した。
今日はよくよく思いがけない言葉を聞く日だ、と真弓は思う。とっさにあのような言葉が自分の口から出るようでは……それとも、意識しない本心が漏れたのだろうか。
心の内でそっと嘆いた。修行は全くなっていない。
ちらりと後ろを振りかえると、赤城は足元に走る樹の根を注意しながら歩を進めている。真弓の顎あたりで、頭頂の艶のある黒髪が揺れる。
なんだか落ちつかなくなってしまった。
「竜胆」
だしぬけに顔を上げて呼ばれて、どきりとした。
「な、何だ」
「祠って、あれじゃない?」
赤城の視線は左手側の茂みに向かっていた。なるほど草木の茂みが割れて人の通れる隙間が伸びている。土は踏み固められ、磨耗した石が連なって、敷石の役目をしているのだろう。その示す先、せいぜい二十歩ほど向こうには明らかな神社の屋根の造形が、木立の蔭で小さく窺えた。
二人は顔を見合わせた。
神社ともいえない年経た祠だった。それに向かってひとりの神主……禰宜というのだろうか……合掌し拝座していた。
真弓は一瞬そう思ったのだが、錯覚に過ぎなかった。夕日も透さない樹々の暗がりの下で、剣術部の袴姿を見誤ったのだ。
男は腰を上げ、さらに一拝をして山道を振り向く。横顔が、薄暮に浮き上がった。
「加納君!」
探していた男がようやく見つかった。
「逢引きですか、二人とも」
(真顔で抜かしやがる、この男)
馬鹿げた物言いに、先ほどまでの鬱とした感情が、どこかへ吹き飛んでしまったのを真弓は感じた。
たったの一言で……それが自分でも可笑しく思える。
「なに言ってんだ。こんな色気に乏しいのを」
余計なことを口にするから悶絶する羽目になるというのに。
「神域で色事ってのは感心しませんよ」
赤城の肘鉄を水月にくらってうめく真弓に、たたみかけるようなジョークをかけてやる加納洋人、17歳の夏であった。
「もう、ばかなこと言ってないで帰るよ。心配してたんだからね」
「心配してくれたんですか?」
赤城の労わりに意外そうな顔で聞き返してきた。
「そりゃ、大事な仲間だもん。ねえ竜胆」
赤城の台詞に、真弓は沈黙で応えた。腹をおさえて、息をするのも辛そうにしている。
「すいません、探検してたら時間を忘れちゃって。でもいいもの見つけたし」
歩きながら、背後に遠くなる祠を指し示した。
「天之御中主之神。この神様を単独で迎えている御社なんて、そうあるもんじゃないので」
「そう?八幡様とか鹿取明神くらいなら知ってるけど」
背後から足音がして、立ち止まる。回復した真弓が追いついてきていた。
「そういうの好きなのか?前から思ってたが、おまえ本当に年寄臭いな」
「そうですかね」
「竜胆だって若者っぽくないじゃん。カラオケ好きってとこだけで、あとは……」
そこまで言って、赤城は笑った。言われた真弓は困ったようなすねたような顔で憮然としている。真弓は如何に高い精神年齢の持ち主であるかを赤城が好き勝手にからかって笑う、部員たちに
歓迎されている応酬だった。
洋人はと言えば、軽く笑っただけで練習や作業に没頭するのが常だったが。
いつの間にか、洋人が二,三歩ほど先を歩き二人がついてくるような形になっていた。しかも彼に歩みを緩める気配が無い。真弓は少しカチンときた。
「おい、先に行くな」
この男はいつもそうだ。誰かと一緒にいても、必ず置き去りにして一人だけ遠くへ行こうとする。
ひとに怨まれる原因は、案外こうしたちょっとしたところにあるのやもしれぬ。
「お前、もう少し人に合わせろよ」
「え?ああ、はい」
足を止めて、二人との距離は縮まった。
「離れないほうがいいよ。暗くなってきたもの」
「逢魔ヶ刻か」
赤城の注意に洋人が反応した。真弓は彼の言葉から忌まわしい字面を連想し、何を言いだすのかと訝がった。
夕陽はすでに、半分ほど山の向こうに沈んでいる。
「オウマガ……何?」
「怖い話だから聞かなくていいです」
「う……そんなこと考えないでさ、ほんとに早く戻ろうよ。お腹も空いちゃったし」
怖さに抵抗して明るく振舞う赤城。
「そうですね。こういう話は九条さんにでもしてやった方がいい、あの人の反応は面白いから」
「面白い?九条くんが?」
「小動物みたいですよ。可愛げは無いけど」
あれが小動物なのか、確かに可愛げ無いなどと赤城は笑う。真弓は話に上った男子の顔を思い出してみた。なるほど余計な愛想を振りまく男ではなかったが、小動物と評する加納のセンスは意外な気がした。
当の男は交友関係や練習内容などの話を一級上の主将と交わしている。背の高い姿と、赤城の屈託無い笑顔を後ろから見ているのは何だか面白くなかった。
「おお、戻ってきたぞ」
そうして二人の会話を留めるように、寺の明かりを指さした。本当にもう、すぐ近くまで来ていた。
帰還するや否や、加納は早めに着替えてくると言って宿房へ駆けていった。
赤城は溜息をつきながら、境内から山道を振りかえった。山は影となり闇となって、青灰色の空を、赤城の視界を占領した。太陽はとっくに姿を消し、木の枝も幹も、草花の輪郭も判然としない。
一番星は見えていた。しかし自分を闇から守ってくれる光は、人間の灯す明かりのはずだった。
「一度、ちゃんと話をしないといけないかなあ」
竜胆はそう言い残して自分の膳を取りにいった。何だか難しい顔をしていたが、加納とどんな話をするというのだろう。
先程だって、彼の口からあのような言葉が出るとは意外な気がした。思わぬことをよく聞く日だ。
どうせ詮の無い考えを巡らしているのだろう。それよりも重大なことが赤城にはある。栄養をつけて明日の稽古のため体調を調えることだ。
「赤城、早く来てよ。もう全員そろったよ」
赤城と同じ三年生の女子部員が夕食に呼びに来ていた。
「ごめん、すぐ行くよ。もう本当にすぐ!」
そう、香り高い精進料理と頼もしい同士たちが揃って待っている筈だった。
(心配することなんて何もないよね)
未来への希望を胸に抱き、赤城はぱたぱたと駆けていく。
山は完全に夜を迎えた。
闇の中に、人の想いも命の息吹も何もかもを呑みこんで。
月と星が、新しい太陽を迎える朝まで……