ーーー「二年生・夏」ーーー
南は今日も、ロードの調教に苦心していた。ロードというのは、彼の管理馬であるデモンズロード号のことである。馬場で疲れ果てた南は、ロードを連れて馬繋場(ばけいじょう=馬をつないで馬装したり手入れしたりする場所)にやってきた。
「長谷川〜、ロードに騎ってくんねぇか〜?」
南は、タフで我慢強い次期部長に声をかけた。長谷川は無言で首を振った。
「ミドリひめ〜、あんたはどう?」
南は、今度は長谷川の幼なじみに頼んでみた。ホースから流れ出す水でストイック号の脚を冷やしている碧子からは、冷たい答えが返ってきた。
「私では、しがみついていることしかできません。お断りします」
南はがっかりしてうつむいた。
デモンズロード。牡馬。三歳。葦毛(あしげ)。アングロアラブ(サラブレッドとアラブを交配した品種)。大学部のSRC(SEIKA・RIDING・CIRCLEの略)から引き渡された彼は、手に負えない馬だった。
デモンズロードは、ある牧場から星火学園大学部馬術部が購入した馬だった。デモンズロードの名は、大学部の馬術部の学生たちがつけたものである。「デモンズロード」つまり、「悪魔王」の名にふさわしく、彼の性格は最悪だった。大学部馬術部の部員たちは早々にロードに見切りをつけて、SRCに押しつけた。
星火学園大学部馬術部は、戦前からの部の伝統を受け継いでいる。
部活動は規則が厳しく、礼儀作法もおろそかにはできない。そして、練習も厳しい。学生馬術の世界では強豪として有名だが、星火学園内では、雰囲気が息苦しい点が不評だった。星火学園大学部は全体的に自由で開放的なので、大学部の馬術部は異色の存在なのである。
それに対してSRCは、「乗馬を楽しむ」 がサークルの趣旨である。SRCに所属している学生たちは、みんなのんびりとしている。彼らは、大学部馬術部の生徒たちよりは、ロードの調教に努力したらしい。だが、彼らもロードの調教をあきらめた。ロードは、高等部馬術部に流されることになった。
星火学園高等部馬術部は、大学部馬術部とSRCの特徴を併せ持っていると言われている。双方の長所と短所を併せ持っているのである。ここでも、ロードは大暴れをしてみせた。
馬は、従順な動物である。大抵は、人間の下す指示に懸命に従おうとする。
しかしロードの人間に対する態度は、ひどいものだった。彼は、人間に敵意を持っている。近づく人間に噛みついたり蹴りつけたりするのは、日常茶飯事。彼の蹴りがまた、危険なしろものである。
普通、馬は前や後ろにしか蹴らない。そして馬が蹴りつける原因は、「不安」 であることが多い。(人間に死角に入られたりなど) 蹴りたくて蹴るわけでもなく、ましてや蹴りを当てようなどとはしないのである。
ところがロードは器用に回し蹴りをする。おまけに、人間の体を狙って蹴りをいれるのである。
蹴り以外にも、彼には悪い性癖があった。鞍に乗った人間を、振り落とす悪癖を持っているのである。長谷川や、碧子ですらロードに乗ると、ただ乗っているだけで精一杯なのだった。
「散歩、行ってくるわ………」
南はロードの引き綱を持って、しょんぼりと歩いていく。長谷川は、ひょろ長い体を折り曲げて鞍を拭いている。彼はしばらく手を止めて、南を見送った。
「南くん、ロードにつきっきりだね」
馬場から、ダンシングバード号に騎乗した内村が歩いてきた。内村は馬繋場に騎乗したまま入ると、器用にバードの向きを変えた。鞍から降りる、腹帯を解いて鞍を取る、頭絡 (とうらく=頭部につける馬具) をはずして無口頭絡 (銜=ハミ、のついていない頭絡) に付け替え、引き綱を繋ぐ、の動作を一息にすると、バケツに水を汲んでバードに飲ませてやる。そして、ため息をついた。
「南くん、どうする気だろ。ロードが気になるのは分かるけど、ロードとばかりつき合っ
てたら、南くんの練習にならないよ。ここんとこずーっと、毎日毎日ロードの調教ばかりやってるでしょ? 南くん、高校に入ってから馬に騎りだした部員の中じゃ、一番上達が速いのに。もったいないよ」
水遊びが好きなバードは、鼻先でバケツの水をかき回した。水しぶきが内村にかかる。これはいつものことである。
脚の冷却を終えて、ストイックの体を洗ってやりながら碧子は言った。
「英典さん。南さんは、ロードに信用してもらおうと必死になっています。ロードの調教に匙を投げてしまった私たちには、口を出す権利はないと思います」
「Princessは呑気な人でスね」
バードの鞍と頭絡を運びながら、アーヴィングは碧子に厳しい現実を言い始めた。
「Load(ロード)は、あナたのStoic(ストイック)や長谷川サンのSylph
(シルフ)とハ違イまース。Loadは星火学園がownerデす。しかーシ、Loadはbeing of no use to our club activity! 学校がそんナhorseをいつまでもコこに置いてくれルと思いまスかー?」
碧子の目が鋭くなった。「no use」の一言が、いかにも冷たく聞こえたからである。
「勇さん、なんてひどいことを言うのですか。南さんの努力が、無駄なものだと言うのですね」
長谷川は、拭き終わった馬具を馬具庫に運ぶために立ち上がった。
「アーヴィングの言っていることはどこもおかしくない。SRCの連中だって、ロードが使いものにならんから俺たちに押しつけてきたんだ。結局ロードは、俺たちも手に負えなかった。三年生はもう、ロードをどこにやるかの相談をしているぞ」
碧子の手の動きが、一瞬止まった。
黙々と馬たちのバンテージを洗いながら、会話に耳を傾けていた佐竹が顔を上げた。
「長谷川先輩、南先輩にその話をしましたか?」
長谷川は渋い顔をした。
「言えるわけないだろうが」
「………ですよね、やっぱり………」
佐竹も暗い表情になった。
馬繋場の馬術部員たちは、しばらく無言だった。
藤ノ輪は、授業が終わると病院に行った。そして、そのまま学校に戻った。
星火学園高等部では、さまざまなクラブが活動している。
体育系のクラブも、野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、テニス、陸上競技、体操、柔道、水泳などのどの学校でも行なっていそうなメジャーな競技を始めとして、卓球、バドミントン、創作ダンス、スキー、スケート、ホッケー、ハンドボール、ラグビー、アメフト、ゴルフ、フェンシング、レスリング、ボクシング、弓道、空手、相撲、剣術、ボート、ヨット、アーチェリー、山岳、そして馬術などのクラブがある。
他にも、オリエンテーリングやゲートボールや……とにかく何が何だか分からないくらいたくさんのクラブがある。
部だけでなくて同好会なども含めると、体育系だけに限ったとしても、クラブ活動の全体を把握している人間はほとんどいないだろう。
ある程度の部員が揃っているクラブは、専用の体育館やグラウンドや道場で活動を行なっている。それらの設備が集まった、高等部体育関連施設場は広い。藤ノ輪の目的地は、施設場の中でも端の方だった。彼女は馬術部員である。行き先は、厩舎だった。
藤ノ輪は元気に部活動に励む生徒たちを恨めしげに眺めながら、高等部の敷地内をとぼとぼと歩いていた。彼女は、少しとかしただけのばさばさのショートヘアの中に手をいれて、頭皮をがりがりとひっかいた。
藤ノ輪の足が止まった。彼女の病院行きの原因が歩いてきたのだった。藤ノ輪は、怖さに少しすくんでしまった。
「藤ノ輪〜、病院帰りか〜?」
彼女に負傷させた馬を散歩させながら、南は藤ノ輪に手を振った。南は、華奢な体つきの者が多い馬術部員の中では、比較的一般人に近い体格をしている。
藤ノ輪はそうっと南に近づいた。彼女が近づくと、ロードは耳を後ろに寝かせて白目を剥いた。
「あんた、よくこんな馬を散歩させられるね。あたしはこいつ、怖くてたまんない」
藤ノ輪は胸を押さえた。そこは、コルセットのようなもので固定してある。しばらく前に、藤ノ輪はロードに蹴られて肋骨を折ってしまったのだった。
折った当初、彼女はまさか骨折しているとは思わず、放置していた。痛みがおさまらず熱を出した段階で彼女は、病院に行くことを長谷川に強く勧められた。病院で診察を受けた結果、骨折の事実が判明したのだった。
南は笑った。
「コイツ、俺にはちょっと馴れてきたから」
「ふーん、ちょっと信じらんないなー」
ここで藤ノ輪はあることを思った。ロードは今、藤ノ輪に敵対心をむき出しにしているが、さきほどまではどうだったか。南と楽しそうに、散歩していたのではなかったか。
藤ノ輪は南を見た。もしかしてこいつは、かなりすごい奴なんじゃないだろうか。SRCですらお手上げだったこの馬が、南に対しては少しずつ態度を変えてきたいる。
「………あんたってさ、すごい根気があるんだね。他の人はみんな、ロードのことあきらめちゃったのに」
藤ノ輪は感心してそう言った。
「お、ほめてくれんのか。サンキュ。へへー、もっとほめて。けどさー、俺は根気があるんじゃなくて、単にあきらめが悪いだけだって。やりかけたこと止めちまうのって、気持ち悪りィーんだ」
南は笑いながら言った。藤ノ輪も笑った。笑いながら、彼女は自分の耳に触れた。左の耳のピアスに触れると、くるくると回す。近くで見ないとよく分からないが、彼女が付けているのは、翼を広げた天馬の形のピアスだった。
南は藤ノ輪の動きに目をとめた。
「なんだ、またそのピアスしてんのかよー。お前、他にいいの持ってたじゃねーか」
藤ノ輪はむっとした。
「あたしが気にいってるんだからいーの。馬術部員、て感じがしていーじゃない」
「そーかなー」
南は左耳に、飾り気のないフープタイプの銀のピアスを二個つけている。藤ノ輪はちょっと悔しい。南の耳は耳朶が小さくて形がいい。藤ノ輪よりも、はるかによくピアスが似合っている。藤ノ輪は言った。
「南ってさ、耳たぶ小さいね」
「そ。だから俺はビンボーっつー訳だな」
「えー、関係ないでしょ、そんなこと」
他愛ないお喋りが楽しくて、藤ノ輪はそのままロードの散歩につきあってしまった。
厩舎の二階で、三年生たちは相談を続けていた。次の試合にエントリーする部員の人選を終えると、話題は馬の出入りのことに移った。
「花村、ロードどうする? どこにやっちまおうか?」
副部長は、もうロードを移動させることにしてしまっている。上座に座ってあぐらをかいていた花村部長は、眼鏡をかけ直した。
「ロードを移すのは、もう少し待ってみないか。ゆっくりだけど、ロードの馴致(じゅんち)は進んでるよ。南は辛抱強い奴だよな。あの根気は長谷川以上かもしれん。もしかしたら、ロードは使える馬になるかもしれん」
副部長は嫌そうな顔をした。
「ロードを置いておくのは、南にもよくねぇよ。南、騎乗センスはかなりのもんだってのに、あの性悪馬につきっきりで、ぜんぜん練習ができてねぇじゃねぇか。このまんまじゃ南の奴、ロードだけで高等部の部活が終わっちまいかねねぇよ」
花村部長は言った。
「ロードはいい馬だよ。頭がいいしな。問題は、あの人間不信の性格だけさ」
会計の係の女子部員はあきれている。
「その、人間不信てとこが、大問題なんじゃない」
蹄の静かな響きがする。馬匹管理の係の女子部員が、視線を外に移した。そして彼女は小さな窓に近寄り、他の部員たちを呼んだ。
「ねぇ、みんな、こっち来て! あれ見てよ!」
三年生部員たちは、顔を寄せ合うようにして窓から外をのぞいた。彼らの眼下では、まだ若いにもかかわらず、すっかり白くなっている葦毛が歩いていた。赤い引き綱を握った南は、葦毛に優しく話しかけながらのんびりと歩いている。南の横に、おそるおそるロードについて回る藤ノ輪がいる。そして仏頂面をして、バケツ一杯の青草 (採りたての新鮮な草) をロードの鼻先に差し出す長谷川。彼らから少し離れて、草刈り鎌を持った碧子が厩舎の中に戻っていく。青草刈りは、彼女がやっていたようだ。
この様子を見ていた三年生たちは、困ってしまった。
「やっぱり、もうしばらくこのままにしておこう」
花村部長の意見に、最後には全員が賛成した。
ーーー「三年生・春」ーーー
風が吹くと、馬場の周囲に植えられた桜の、花びらが流れた。
力強い駈歩(かけあし)の音が、馬場のあちこちで聞こえる。その中の一つは、デモンズロードのものだった。
細かった体に肉がついて、逞しくなっている。南を背に乗せて走る姿は、躍動感にあふれて元気いっぱいという様子だった。
南とロードは、練習用の障碍(しょうがい)に向かって真っすぐに入っていく。地面から四肢が、ふっと離れた。
「Excellent………!」
障碍の横にへばりついていたアーヴィングは、人馬一体となって飛越するさまを見せつけられてうっとりとした。その様子を見て南は舌打ちした。南は、輪乗りをしながらアーヴィングに言う。
「勇! 飛んだらバーを10cmあげてくれって頼んだだろー!」
少し離れたところで障碍を修理していた桂祇が走ってきた。
「勇くん、何やってるの! ほら、早く早く!」
結局、バーの高さを変えたのは桂祇だった。アーヴィングはまだ、夢の中にいるようである。
「day by day、Demons’Loadは素晴らしクなってイます。まだ、南サン以外はウまク騎レないよウですガ。でもsomeday、こノclubになくてはナらないhorseになルかもしれマせーん」
桂祇はいらいらとして、アーヴィングを小突いた。
「勇くん、ぼんやりしてないでよ!」
長谷川は、馬場の隅の方で黙々とワンダリングシルフ号を走らせている。長谷川は黒いシャツを着て、黒いキュロット(乗馬ズボン)をはいている。シルフが黒鹿毛なので、遠目には、長谷川たちは一体化して見える。
長谷川は南たちの動きをちらりと見て、苦笑した。彼には南たちのやりとりは聞こえていないが、行動を見れば何が起こっているのかは理解できる。
ダンシングバードに騎乗した内村が、埒(らち)の方に歩いていった。見学者らしき少女に声をかける。
「君、見学者? よければ馬に騎ってみる?」
障碍を飛んだ勢いそのままに、佐竹が慌てて駈けてくる。
「副部長、やめてください! 練習に専念してください。見学者の世話は僕たちがしますから」
内村は佐竹の言うことを聞いていない。ひょいとバードの背から降りる。
「桂祇さん、台持ってきてくれる?」
「はーい、今行きます」
桂祇は、またもや走り出す。
「エアリエル、そろそろ帰ろっか」
馬術部に来てまだ日の浅いエアリエル号の調教を終えて、藤ノ輪は馬場を出て行こうとした。手に持つ追い鞭が、エアリエルや他の馬を刺激しないように注意しながら歩く。
碧子が藤ノ輪を呼び止めた。鐙上げ (あぶみあげ=鐙を鞍の上にあげて騎乗する。鐙に足を乗せることができないので、脚の力と姿勢だけで体を安定させなくてはならない) でえんえんと軽速歩 (けいはやあし=速歩で、馬の動きに合わせて騎り手が腰を浮かせたり下ろしたりする乗り方) を続けている。とっくに一時間は越えているだろう。碧子も乗馬のストイック号も、全身に汗をにじませていた。そんな様子でも、碧子は暑苦しい印象を与えない。むしろ爽やかだった。
疲労を感じさせない涼やかな声で、碧子は言った。
「有樹さん、馬繋場に戻られるのでしたら、装蹄師(そうていし)さんにお茶を差し上げてくださいませんか」
藤ノ輪はうなずいた。
「うん、分かった。アイスティーでいいよね」
藤ノ輪はエアリエルを連れて馬場を出て行った。馬繋場に近づくにつれて、金属の打ち合わされる音が大きくなる。装蹄師が蹄鉄をうつ音だった。
この日も馬術部は、騒がしくて平和だった。
finis.
written by Chaos−Yuki,Spes_est.