さよなら、と言ったのは自分だった。

帰って来ないと知っていて、手を放した。




なのに どうして。







ぼんやりと見上げた先に広がる同じ色の空を瞳に映し、窓辺に寄せた椅子に座った少年はそっとため息をついた。

彼が去って行ってから、もう何日が過ぎたのだろうか。数えるのが苦しくなるのが目に見えていたから、敢えて考えないようにしていた。そうでもしなければ、おかしくなってしまいそうだった。

流れていく雲を目で追いながら、少年は無意識に首からかけた銀のチェーンに手を伸ばした。二枚のプレートを指先で弄ぶと手触りの違いがはっきりとわかる。一方はややざらざらしていて、片方は比較的新しく滑らかな金属の感触を指先に伝える。

二種類の感触を確かめるのが、あの日依頼ルークの癖になってしまっていた。

過ぎていく時間を指折り数えなくても、タグの数が一つ増えて、少しだけ重くなったチェーンが、嫌でもあの別れを思い出させる。それでも、少年はそれを外す気にはならなかった。

起きているときは勿論、眠りについている間でさえ少年の意識は待ち人に支配されていた。男が戻ってくる夢を見ては目が覚めて、それが事実ではなかったことに打ちのめされる。そんな夢など見なければいいと願う反面、いっそ目が覚めなければいいと頭のどこかで思ってしまっている。

そうして数えられない日数を重ねて時間は刻々と過ぎ、月一回の補給便がやってきた。

三つ年上の幼馴染は、来る日を忘れていたと告げた少年を信じられないものを見るような目で見つめた。

「どうしたんだ、ルーク?前回まではこの日を随分楽しみにしてたじゃないか」

そうだっけ、と答えそうになり慌てて唇を噛む。曖昧に頷くと、黒髪の幼馴染は途端に心配そうな表情になった。

「ビッグス、なんでもないんだ」
「『なんでもない』って顔じゃないぞ」

黒髪の青年は日用品が詰まった箱をテーブルに置き、一旦外にとって返した。戻ってきたビッグスの手にはビール瓶が二本握られていた。好きな銘柄のアルコール飲料を見とめて、少年はようやく小さな笑みを浮かべた。

「氷と一緒に持ってきたからな、冷えてるぞ」

食卓に座り、礼を言って受け取った瓶の蓋を開ける。少し甘味のある炭酸がシュワシュワと喉を下りていくのが心地良い。同じように椅子に座ったビッグスが、ルークの瓶に自分のそれをぶつけた。

「話してみないか。少しは気分が軽くなるかもしれない」
「ん…」

ためらいがちに、少年はゆっくりと奇妙な訪問者の話をし始めた。翼を持った乗り物で空から降りてきた男が、たったの数日間で世界を変えてしまったこと── 変わらない日常を送っていた少年にとって、天変地異にも等しいその出来事を言葉にするのは酷く難しかった。

話し終えて、口に出すことで再確認した男への思いに囚われたまま、少年は窓の外を見つめた。年上の幼馴染は少し複雑な表情で微笑むと、手を伸ばして少年の柔らかな金髪をくしゃくしゃと撫ぜた。

「そいつは約束したんだろう、戻ってくるって。なら、きっと来るさ」
「うん…ありがとうビッグス」

帰ろうとする友人を引き止めて、少年は泊まっていくことを奨めた。一晩中他愛もない話をして、ルークは年上の操縦士が去って以来、初めて心から笑うことができた。翌朝、年上の幼馴染はまだ少し心配そうな顔で街へと帰っていった。






ひとりになると、以前は気づかなかった静寂が息苦しいほどの重さで少年を苦しめた。研ぎ澄まされた聴覚が、以前は全く聞こえなかった音を拾ってしまう。

「あの人は戻って来ないよ、ビッグス」

頼りない呟きがやけに大きく家の中に響いて、少年は強張った自分の肩を抱きしめた。

わかっている。

わかっている、つもりだった。

それでも毎日、風の音に耳をすましてしまう。通り抜ける陣風が奏でる音が少しでもエンジン音に似ていれば、軌跡を待ちわびる気持ちがそれを都合の良いように解釈してしまう。

そうして同じようにめぐってきたある日の夕暮れ、ルークはいつものように井戸から汲み上げた水を運んでいた。戸枠に足をかけた刹那、少年はゆるやかに吹く風の向こうに微かなプロペラ音が混じるのを聞いた── 気がした。

扉の前で振り向き、水桶を投げ出して走り出す。透明な水がばしゃりと足元に零れて乾いた大地に吸い込まれていった。

がむしゃらに走って走って、食い入るようにパノラマの地平線を見つめる。耳を済ましても、待ちわびた人が帰ってきたことを示すものは一つも見つからない。

見つかるわけがない。

全速力で駆けたおかげで上がった息と、どくどくと脈打つ鼓動が五月蝿い。どうしようもなくみじめな気分で、少年は地面に膝をついた。糸の切れた操り人形のように硬い砂の上に崩れ落ちる。髪が埃まみれになるのも気にせずに、ルークはそのまま大地に仰向けに寝転んだ。

「何度目、かな」

今度こそ戻ってきたのかもしれない、そう思って外に走り出て落胆に打ちのめされることが何度続いたか。もう数えるのもやめてしまった。戻って来る筈などないと、違う世界の人間なのだと、ずっと自分に言い聞かせているのに。

まだ太陽の熱が残る地面に仰向けに寝転がる。ごつごつとした地面で背面が擦れるのも気にせずに、少年は腕と脚を伸ばし体の力を抜いた。

涙は出なかった。そんなものは、とうに枯れてしまった。

虚ろな瞳に不思議な色に染まった夕焼け空が映った。刻々と色を変えていくグラデーションも、今は少しも綺麗だと思えない。ひとりきりで空を見上げることが切なくなるだけで。

ぽつぽつと空に姿を現す星の光りを拒絶するように、ルークは目を閉じた。

どれほどの時間が過ぎたのか、虚脱感に抗うことなく横たわっていた少年は、ふと何かの気配を感じてゆっくりと目を開けた。

家の裏手にある畑に住みついたウォンプラットが、不思議そうに少年の顔を覗き込んでいた。満点の星空と半分欠けた月が投げかける明かりで、夜行性の小動物の姿は思いのほかよく見える。

体を起こすと、警戒した小さな来客は数メートル離れた場所まで飛びすさった。しかし獣はそれ以上離れることなく、小さな闇色の瞳でじっとルークを観察していた。

少年はしばらくそうして何をするでもなく、硬い地面に足を投げ出して座り込んだまま暗い大地を見渡した。

どこか遠くで狼の遠吠えが聞こえた。荒野に住まう肉食獣の恐ろしさは、幼い頃から叔父に何遍も聞かされている。おかげで叔父や叔母がいなくなった今でも、あの声を聞くと手足が震えるのが常だった。

どういうわけか今夜は少しも恐怖を感じなかった。狼たちの食料に成り得る小動物が目の前で後足をつかって耳の後ろを掻いているからかもしれないし、感情がついに麻痺してしまったからかもしれない。実のところ、今すぐ狼が襲ってきたところで怖いと感じるとは思えなかった。

全く警戒する様子のないウォンプラットは、何時の間にか少しずつ近付いてきていて、手を伸ばせば届きそうな位置で毛繕いを始めた。忙しなく小さな前足と舌で砂色の毛皮を丹念に掃除していく。

ぼんやりとした視線を送ると、毛繕いを終えた小さな獣が首を傾げて少年を見つめ返した。

細く長い狼の遠吠えが遠くで微かに響いた。






再び大地に寝転んで近づいては離れる肉食獣の声を聞きながら、少年はぼんやりと星空を見上げた。何が面白いのか、少し離れた場所で丸くなったウォンプラットと並んで、ゆっくりと天を横切る星を追う。

どのくらいの時間そうしていただろう。何時の間にか小さな獣はいなくなっていた。夜明け近くなり白くぼやけてきている空の下で、ルークは緩慢な動作で立ちあがった。

重い身体を引きずるようにして、ひたすら手を動かし井戸水を汲み上げる。たっぷりと湯を沸かすと、少年は砂埃まみれになった身体を洗った。そうしてやっとのことで疲労感を覚え、夜明け前に寝台に倒れ込んだ。

久しぶりに夢を見ずに眠ることが出来て、日が上りきった時間までずぶずぶと怠惰な睡魔の沼に浮かんだり沈んだりを繰り返す。とろとろとまどろむ少年が夢うつつに感じたのは、人の気配だった。

ああ、また夢だ。今日こそゆっくり眠れると思ったのに。

ため息をついて目を開けると、そこには幾分かやつれた男の顔があった。何度も夢に見た別れたときの姿そのままではなく、不精髭が伸びて触れれば切れそうな危うい気配をまとっている。

今回のは随分現実味がある──とうとう自分はおかしくなってきているのかもしれない。自嘲めいた笑みを唇に乗せると、幻影の瞳に苦しげな色が浮かんだ。

大きな手が躊躇いがちに差し出されるのを見て身体が強張った。素早く起き上がると寝台の奥へと身体をずらし、壁に背をつけてシーツを握り締める。少年の姿を瞳に映した男が傷ついたような表情を見せた。余りにリアルな幻を見ていることへの恐怖が背筋を這い、冷たい刃のような痛みがルークの胸を貫いた。

こんなのは、いらない。欲しいのは、こんな幻じゃない。

「今度は、いつ消えるの?」

掠れた声でつぶやいて、顔を覆った。枯れた筈の涙が溢れ出してきそうだった。

「幻なら、いますぐ消えて」

もう、たくさんだ──そう言いかけたとき、少年の腕は痛みを感じる程の強さで顔の前から除けられていた。見開かれた青い瞳に苦しげな男の顔が映る。息を飲む間もなく捕まれたままの腕が引かれ、噛みつくように口づけられた。

苦しさと混乱とで必死に胸を押し返しても、抱き寄せる腕にはますます力が込められるばかりで、固く閉じた目の端から涙が零れた。ようやく乱暴なキスから解放されて喘ぐ少年の耳元で、泣きたくなるほど懐かしい声が囁く。

「幻じゃない」

びくりと震えた体が逃げを打つのを許さず更にきつい抱擁に抱きこんだ腕は、幻影とは思えない程の力強さで。息をつめて緊張を解こうとしない少年に許しを乞うように、男は苦しげに彼の名を呼んだ。

「ルーク」

繰り返し懇願めいた声で名を呼ばれ、少しずつ身体の緊張が解けていった。ゆっくりと腕を緩めて、ソロが抵抗をやめた少年の顔を覗きこむ。まだ完全には男の存在を受け入れていない空色の瞳が、じっと男を見つめ返した。

ざわざわと、止まっていた筈の風が身体中に吹き荒れている。
今度こそ、信じていいのだろうか。

「遅くなって悪かった」

口の端を上げてどこか痛々しい笑みを見せる男に、ルークはおずおずと手を伸ばした。
夢でも構わない。目の前にあるこの温もりを感じていられるなら、いっそ狂っていても構わなかった。

触れた頬から指を滑らせ、唇を掠めてその下の傷跡をいとおしむようになぞると、ヘイゼルグレーの瞳が揺れた。そこに映る自分の姿を覗きこむように顔を近づけ目を閉じると、ルークは自分から男に口づけた。再び重ねられた唇は先刻よりも熱を増したように思えた。触れるだけの口づけはすぐに深いものに変わり、性急に歯列を割った舌に口内を蹂躙されぞくぞくとした感覚に身体が震えた。

長い口づけに翻弄され肩で息をつくルークの鼻先に軽いキスを落とし、男はジャケットを脱ぎ捨てた。髪に差し込まれた手を支えにしてゆっくりと寝台に横たえられ、少年は開いたシャツの胸元から覗く日に焼けた肌に震える指を伸ばした。

「ハン…」

手を伸ばして直接肌に触れて初めて、名前を呼ぶことが出来た。

一度呼んでしまえば堰を切ったように感情が溢れ出す。すがりつくように首に腕をまわして大柄な体躯を抱き寄せる。伝えたいことがありすぎて言葉にならない。邪魔でしかない涙がまたこみあげた。

二度目の呼びかけは再び仕掛けられた熱くて長い口づけに溶けていった。リアルな息苦しさに先刻とは逆に奇妙な安堵を覚え、少年は途切れたキスの合間に深く息を吐いて、ぼやけた視界の先にある男の整った容貌を見上げた。

頬を濡らした涙を拭う指が震えているのに気づいてヘイゼルグレーの対に問うような視線を投げれば、切ない笑みが男の口の端に浮かぶ。

こくりと息を飲んで、身体の力を抜いて。ちゃんと笑えているだろうか。

「戻って、きたんだ」
「ああ」

涙混じりの呟きを落とせば低く掠れた声が即座に答えをくれる。柔らかな衣擦れの音と内側と外側の両方から身体をあたためる温もりに身を委ねて、ルークはゆっくりと目を閉じた。

「ハン」

不安も悲しみもすべて溶けていく。
そこにいるはずのない男の名を呼ぶ少年は安らかな微笑を浮かべていた。








end of the sky








荒野に佇む小さな家は、いつになく寂れた雰囲気を纏っていた。土煙をたて、街から続く一筋の線を描いて小さなバイクが家の前に停まる。口髭をたたえた黒髪の若者が戸を叩き、それは空虚な音で家の中にこだました。

「ルーク…?」

おそるおそる呼びかけた手で戸を押すと、それはギィ、と軋んだ音を立てて内側に開いた。

「いないのか?」

呼びかけたビッグスに答える者はなく、手にした二つのビール瓶から冷たい雫が乾ききった床にぽたりと落ちた。食卓に近付いた青年は、銀色に光る何かが置いてあるのに気づきそれを手にとった。文字が読み難いほど古びたタグと比較的新しいプレート。二枚の認識票が鉛色のチェーンにかかっている。

「『ソロ』…」

呟かれた名は、時が止まったその空間に小さな波紋となって広がった。

主を失った台所には、微かな残滓のように珈琲の香りが漂っていた。










At the end of the sky.










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