5
部屋に閉じこもった少年は、翌朝になっても出てこようとはしなかった。
礼のつもりで作った朝食が冷めていく。常になく苦く感じるコーヒーは、カップの中ですっかり温くなっていた。
昨夜、扉の前で躊躇したが、かける言葉が見つからず、結局何も言えなかった。テスト飛行を終えて降りてきたときの少年の表情を思い出し、ソロはとうに麻痺したと思っていた胸の痛みを感じて、唇を歪めた。
複葉機は一人乗りで、少年を乗せていくことは出来ない。誰かを一緒に連れていくことを真剣に考えている自分に、男は驚いた。今まで、他人を自分の機に乗せることは勿論、連れていきたいなどと思ったことは無かった。
エンジンのかかっていない機体のコクピットに座るだけで嬉しそうに目を輝かせていた少年を、愛機には無い副操縦席に乗せて飛んだらどんなに喜ぶだろうかと、そんなことまで考えてしまっている。
海を見たことがないのだと言っていた。眩しい光りを反射する波を眼下に、風を切って進む翼の上で、あの青い瞳はどんな煌きを見せるのだろう──
扉が開く音で、男の思考は中断された。
昨夜の服のままの少年は、何もなかったように調理場の前に立って朝食の用意を始めようとした。そこで初めて卓上に並んでいる料理に気づいたルークは、ようやくソロの方を見た。
「今までの礼だ」
そっけない言い方しか出来ない自分に歯噛みしたい気分になる。小柄な宿主は男と目を合わせようとはしなかったが、小さく礼を言って席についた。
フォークを手にとった少年が顔を上げた。
「すごいね、ごちそうだ」
明るすぎる笑顔に言葉を無くした男の眼前で、ルークは料理について屈託無く賛辞を並べた。昨夜の感情の揺れが嘘のように、冷めてしまった朝食を次々と口に運ぶ。
「食べないの?」
尋ねられて初めて少年を凝視してしまっていたことに気づき、慌てて目を逸らす。手を動かしどうにか口にした料理の味は、全くわからなかった。
そしてそれは少年も同じだろうと、ソロは何故か確信めいた思いを抱いていた。
結局、核心に触れることは何も言えないまま、出発の準備だけがスムーズに進んだ。万が一のときのために水と食料を積んで、僅かな荷物を載せればあとは離陸するだけだった。複葉機の翼の横で、二人はその日初めて真正面から向かい合った。
「気をつけて」
微笑んでそう告げる少年の本音がいまだ隠れたままなのを不満に思う自分がいて、思いきり肩を揺さぶってやりたい衝動にかられる。
「なあ、坊や…」
「今日は風も無いし、きっと街までなんてすぐだよ」
ソロの言葉を遮るように、淡々と言った少年は俯いた。
「ルーク」
表情が見えなくなったことで、体内に宿る正体不明の焦燥感は更に容積を増し、ソロはやや強い口調で少年を呼んだ。
「ちゃんとこいつを直したら、必ず戻ってくる」
すぐに返事は無く、少年が顔を上げるまでの時間は酷く長く感じられた。
「うん、僕はここにいるから」
ソロを見上げたルークは、曖昧な笑みを浮かべていた。
「今度の報酬で、こいつを改造出来るかもしれない。そうしたら──」
そうしたら──?
出来ない約束を口に出そうとしている自分に気づき、男は言葉を止めた。
「そしたら、あんたの鳥はもう落ちないで済むね」
先回りして付け足された当たり障りのない言葉に、眉根を寄せる。軽口ともとれるそれにジョークを返せるような気分ではなく、ぎこちない沈黙が訪れた。
「…じゃあ、あっちで見送るよ」
ぽつりと呟いて、早足で離れていく少年を、男は咄嗟に腕を掴んで引きとめた。
「キッド、必ず戻るからな」
目を見開いたルークは、唇を引き結び小さく頷くと、男の手を振り切って駆け出した。少し離れた場所で足を止めて振り返った少年を肩越しに確認しながら、男は操縦席についた。
「動いてくれよ…」
主の呟きを聞き取ったように、三度目の試みでエンジンがかかり、ソロは再び少年のいる方を見やった。
ルークは変わらず、なんとか表情が判別できる距離に佇んで、視線をこちらに向けていた。手で合図をすると、少年も笑顔で小さく手を振った。しかし正面を向こうとした瞬間、少年の唇が言葉を紡ぎ、曖昧だった笑みは翳りを帯びた切なげな表情に塗りかえられた。
距離と風とプロペラ音に阻まれ聞こえなかったそれは、確かに別れの言葉だった。
後ろ髪を引かれる思いで飛び立った男は、注意深くエンジン音を聞き、間に合わせの部品で繋ぎ合わせたワイヤーやパイプに異常がないか確かめようとしていた。持ち主の心配をよそに、病みあがりの複葉機は安定した低い振動を伝え、数十マイルを背後に置き去りにした後、男はようやく肩の力を抜いた。
風の無い空を切り裂くプロペラは滑らかに回転し、気流を軽快に切り裂いて進む。風の抵抗のぶんだけスピードは制限されるとわかっていたが、着陸できない事態を避けるために、ソロは伸ばしきっていなかった脚輪を手動でしっかりと出しきって固定した。
ようやく、見渡す限りの青い空と地平線を目に映す余裕が生まれ、雲一つ見当たらない蒼穹に目を細める。緊張したせいか、酷く喉が乾いていることに気づき、計器版を見ながら男が水筒に手を伸ばしたとき、がくんと大きく機体が揺れた。
次の瞬間、吹きつけた暴風に機体が軋み、ソロは悪態をついて操縦桿を握り締めた。エンジン音よりも凄まじい風の唸り声が容赦なく聴覚を刺激する。目の端に映った計器版の方位磁針が狂ったように揺れ、もう駄目かと思ったその瞬間、複葉機は無風の海に放り出されたように揺れるのをやめ、安定したエンジンとプロペラの音だけを男に伝えた。
空は何事もなかったかのように青いままで、男は混乱する思考をどうにか落ちつけようと、操縦艦に貼りついて酷く強張った指を緩めた。どっと冷や汗が吹き出し、ソロは肩越しに振りかえり愛機を苛んだ乱気流の原因を確認しようとした。
背後には、同じ景色が広がっているだけだった。
安堵のため息をつき、ソロは今度こそ水筒から水を呷った。まだ冷たいそれは乾きを潤してくれたが、何故か拭えない違和感が男の中に残った。
緊張を解くことが出来ないまま予定どおりの航路を進み、太陽が中天に上った頃、街と呼ぶにはささやかな民家の群れが小さく姿を現した。胸を撫で下ろし、男は着陸場所を探した。
程なくして、町外れのさびれたプレハブ小屋の近くに、使い込まれた農薬撒布用の単葉機を見つけたソロは、愛機の高度を下げた。エンジン音を聞きつけたらしいオーバーオール姿の住人が建物から飛び出して手を振った。
誘導に従って、滑走路と呼ぶにはあまりに粗末な広場に慎重に愛機を下ろしていく。つぎはぎだらけの複葉機は、間に合わせの修理を施された後とは思えない安定感で、地に足をつけた。
駆け寄ってきた若い男が着ているつなぎには、いたるところに機会油の染みがついていた。人懐こい笑顔の修理工は、複葉機とソロを物珍しそうに見比べた。
「上を飛んでるのはたまに見るが、ここに飛行機が降りるなんて滅多にないんだ。燃料切れかい?」
「いや、荒野の真中で不時着する羽目になってな。次の街に着くまで飛べるだけの整備をしてほしいんだ」
プレハブ小屋に戻っていったつなぎ姿の男は、工具箱を積んだスクーターに乗って帰ってきた。
工具を取り出す間も絶えずぺちゃくちゃと喋りつづける相手に少々うんざりしつつも、ソロは適当な相槌を返してやった。カバーパネルを外しエンジンの応急処置を目の当たりにした修理工はひゅう、と賞賛の口笛を吹いた。
「これで飛んできたのか?度胸があるな、あんた」
からかい混じりの台詞には慣れている。小さく肩をすくめてそれを聞き流し、男は真剣な声音で重大な問いを投げかけた。
「直せるか?」
「ああ、あんたは運がいい。ついこの間、うちの別嬪さんをアップグレードしたばかりでね、余ってる部品なら山ほどある」
粗末な滑走路の端に停めてある単葉機を肩越しに指差して、若者は片目をつぶってみせた。農作業と平行してやっている仕事だけに、修理は翌日までかかると告げられたが、他に選択肢もなく、ソロは少々割高な修理費と共にそれを了承した。
「不時着したって言ってたが、どこに降りたんだ?」
興味津々といった体で、工具を操る若者が尋ねた。
「あっちから飛んできたってことは、隣街の近くかい?」
「いや、ここと隣街のちょうど中間地点くらいだ。運良く民家が近くにあって、そこの自家用車から部品を拝借した」
いい加減に話を切り上げようと、近隣に食事が出来る場所があるかと尋ねようとしたとき、作業の手を止めた修理工が首を捻って呟いた。
「隣街とここの間…?誰かが住んでるなんて、聞いたことないぞ」
ルークの口振りから、街にはほとんど知り合いがいないことは明白で、たった一人で荒野の只中に住む少年について知らない住民がいても不思議ではない。再び肩をすくめて、ソロは話題を変えた。
「通りに出れば、何か食わせてくれる店があるか?」
「ああ、勿論。あっちに向かって歩いて真っ先に目に入る店のハッシュ・ブラウンは絶品さ」
きっかけを与えたら最後、件のダイナーのメニューを端から端まで暗唱しそうな若者に礼を言い、長身の操縦士はようやく修理工場を後にした。
「見ない顔だね」
軽快なドアベルの音と一緒に小ぢんまりとしたダイナーに足を踏み入れるやいなや、カウンターの向こうの年配のウェイトレスに声をかけられた。これだから小さな街は嫌いだ、と内心で悪態をつきつつも、作り笑顔を顔に貼りつけて窓際のテーブルに腰を下ろす。時間帯のせいもあるのか、狭い店内には男以外に客はいなかった。
長時間温められ続けて濃くなっているコーヒーをすすり、ハッシュ・ブラウンとフレンチトーストを頼むと、出てきた料理は両方ともバターの海に漬かっていた。申し訳程度にそれをフォークでつつき、ソロは退屈そうにマニキュアのはがれかけた爪を見つめているウェイトレスを呼んだ。
「この店に電話はあるかな?」
目の前で多めのチップをコーヒーマグの下に挟んでやると、女は愛想笑いを浮かべて店の奥を指差した。コインも要らない自家用の電話は随分とレトロなデザインで、ソロはうんざりして首を振った。
オペレーターにつないで依頼人を呼び出している間、男はくすんだ窓から見える寂れた街の通りをぼんやりと見つめた。ソロがいるところからはちょうど死角になる入り口から風が吹き込み、ドアベルがカランコロンと乾いた音を立てて新たな来客を知らせた。
しゃがれた声で喋るその客は、随分と年をとった男のようだった。
「フィクサー、また爺さんが来たよ」
つまらなそうな表情に戻ったウェイトレスが、慣れた様子で厨房の方に声をかけた。彼女に呼ばれて出てきた男は恰幅が良く、前掛けで手を拭きながらだみ声でがなりたてた。
「ビッグス爺さん、何度言ったらわかるんだ?うちはもう雑貨も小麦粉も置いてないんだよ、何年も前に飲食店に変わっただろう?」
聞き覚えのある名を耳が捉え、受話器を耳に当てたまま思わず振り向く。その瞬間、オペレーターが相手との回線が繋がったことを告げた。再び電話に向けたはずの意識は、続いた老人の台詞で引きずり戻された。
「わしは友人に届けるいつもの箱を…」
「ここじゃもうそれは買えないんだ。あんたの知り合いだとかいう奴も、もういないんだろう?いいから爺さん、大人しく帰んな」
腰に手をあてて肩を怒らせるダイナーの主人に威圧されたように、年老いた客はうなだれて店を出ていった。受話器の向こうの依頼人が何事かを喋っていたが、男は酷く掠れた声でまた電話をすると一方的に絞りだし、受話器を置いた。
どくりどくりと脈打つ心臓の音に負けないほどの大きさでドアベルを鳴らし、駆け出した操縦士は、少々ふらつきながら通りを歩くしょぼくれた後ろ姿に数歩で追いついた。
「待ってくれ!」
手を伸ばして掴んだ腕は骨張っていたが、筋肉のつき方で老人がかつては身体を鍛えていたことがうかがえる。向かい合うと、白い眉毛の下の瞳はソロに向けられたが焦点は合っておらず、こげ茶色の瞳はどこか遠くを見ていた。
焦燥感に突き動かされる自分と、己の行動を馬鹿馬鹿しく思う自分とが胸の中でせめぎあっている。ソロは一度深く息を吸いこみ、震える声で尋ねた。
「あんたの、友人ってのは…」
「ルークというんだ。月に一度、食料を届けるんだ。ビールも2本持っていく」
聞きたくなかった名をつきつけられて口の中がからからに乾く。太陽は変わらず地上を熱し続けているのに、男はひどい寒気を感じていた。
「その…ルークって奴は、どこに住んでるんだ?」
「ここからバイクで一日がかりで行ったところに──」
ふいと目を逸らし街の通りの先に広がる荒野を目に映して、老人は急に言葉をとぎらせた。
「だが、ある日突然、いなくなった…」
弱々しい声が震えて、年老いたビッグスという名の男は手で顔を覆った。くぐもった嗚咽に混じって、節くれ立った指の間から少年の名が幾度も零れ落ちる。
『あなたは天使?』
出会ってすぐ少年が口にしていた台詞が蘇り、鈍器で殴られたような衝撃を脳裏に響かせた。そうすることで少しでも混乱を緩和できるとでもいうように、額に手をあてて記憶を手繰る。
『あの鳥はどうして落ちたの?』
鳥と、そう言った。あの少年は、ソロの年季の入った複葉機を一度も「飛行機」と呼ばなかったのだ。冷たい汗が吹き出し、男は自分で自分の考えを否定するために、麻痺しかけた思考を無理矢理働かせようとした。
馬鹿な。そんなことが、あるわけがない。
力なく地面に膝をつき、震えている老人を放って、男はダイナーにとって返した。食器を片付けていたウェイトレスが呆気にとられた表情を向けてくるのにも構わず、ソロは掴みかからんばかりの勢いで彼女に詰め寄った。
「ここから西に行ったところに、民家があるだろう?隣街との間に──」
「街の西側?崩れそうな空家が一件あるだけだよ」
怒鳴り散らしたい気分で、低い声を絞りだし、質問を繰り返す。
「若い男が一人で住んでるだろう?」
「聞いたことないね」
ソロの剣幕に気圧されていた女はすぐに自分のペースを取り戻し、怪訝な表情で無愛想に言い放つと汚れた食器を持って洗い場に消えていった。
取り残された男はその場に立ち尽くした。そして一瞬後、弾かれたようにダイナーを飛び出し駆け出した。
見慣れた愛機の翼は少しだけ気持ちを落ちつかせてくれた。お喋りな修理工が本格的な修理を始めていないことを確かめ、操縦士は複葉機を目指して走った。戻ってきた客に気づいた若者が陽気な挨拶を投げ、そして操縦席に乗り込む男を見て顔色を変えた。
「お、おい、あんた!今はエンジンをかけない方が…」
修理工の慌てた声を振りきって、ソロはエンジンをスタートさせた。燃料は往復分ぎりぎりしか残っていなかったが、今は少年のもとに辿りつければそれでよかった。
粗末な滑走路と作業場を仕切る低い木の柵をなぎ倒し、危険なほど短い滑走距離で複葉機を空へと持ち上げる。操縦桿を傾けるパイロットの切実さが伝わったかのように、愛機の寸胴な体は驚く程なめらかに高度を上げていく。
方位を確認し、数時間前とは真逆に進路を取った。限界まで速度を上げれば少年の家まで一時間もかからない。
はやく、はやく。
一秒ごとに体内で焦りだけが容積を増す。方位磁針の示すとおりに飛んでいる筈なのに、誤った方向に進んでいる不安が拭えない。
何も不安に思うことなどない。つい数時間前に別れたばかりだ。
『隣街とここの間…?誰かが住んでるなんて、聞いたことないぞ』
エンジンの音を聞けば、きっとあいつは家を飛び出してくる。蒼穹を閉じ込めた青い瞳をいっぱいに見開いて、駆け寄ってくる筈だ。
『街の西側?崩れそうな空家が一件あるだけだよ』
そんなことが、あるわけがない。
少年は確かにそこに居たのだ。体温も、笑い声も、涙も、確かに、この手が、目が、耳が、覚えている。ルークはたしかに、生きた人間だった。
「くそっ」
天候の変化を目で見るよりも先に肌で感じ取り、ソロはぎりりと奥歯を噛みしめた。雲ひとつ無かった空は心なしか薄暗くなり、風が勢いを増している。見る間に曇っていく前方を、男は憎しみを込めて睨みつけた。
ガタガタと機体が揺れて、年季の入った複葉機が悲鳴を上げる。あいつのところにたどりつくまでもってくれ、たのむ──
砂嵐に頭から突っ込んでいくなど、正気の沙汰ではない。たとえそれが、大事な理由があっての行動だったとしても、いつもの自分なら馬鹿げた行動だと笑い飛ばしていただろう。それが今はどうだ。
頭の片隅にひとかけら残った冷静な心が、己の行動を皮肉った。視界は数メートルにも満たない。砂塵が容赦無く吹き荒れて、まっすぐに飛ぶことすら困難な状況の中、口には出さずに繰り返し少年の名を唱えた。
焦りと不安で途方も無い時間が経ったように思えた。砂嵐の勢いが少し衰えて、視界がほんの僅かに回復した。あの小さな家など見逃してもう通りすぎてしまったのかもしれない。叫び出したくなるような焦燥感を抑えて、ソロは必死で目をこらした。
平坦な荒野の只中に建物の影を見た気がして、男は祈るような思いで複葉機の高度を下げた。地面が近付きそれが気のせいではないことがわかると、躊躇うことなく着陸態勢に入る。
地表近くの猛烈な風の勢いは、スカーフで覆っていても息をするたびに肺まで砂塵を吸いこんでいる錯覚を引き起こした。左右に激しく揺れる機体を操り、どうにか無様な着陸を披露した男は転がり出るようにコクピットを飛び出した。
たしかに見えた建物の影がある方向に向かって、一歩一歩足を進める。
ルーク。
吹きつける砂は衣服越しにも微かな痛みをもたらした。口もとのスカーフを押さえる手が震える。
そこにいるだろう、坊や。
やがてぼんやりと見えてきた家の輪郭を目指し男は走った。あの扉を叩けば青い瞳の少年が迎えてくれる筈だった。
見覚えのあるその建物は、しかし何かが違った。近づけば近付くほど違和感が不安を増幅させていく。
戸板に手をかけて叩こうとしたその時、扉だったものは呆気なく内側に倒れていった。男の目に飛び込んできた室内は様相を一変していた。年月と砂嵐に苛まれた壁や天井には無数の穴が空き、吹きつける風に骨組みごと飛ばされてしまわないのが不思議なほどで。
身動ぎもせず立ち尽くしていた男は、やがてよろめきながら、かつては家であった残骸へと足を踏み入れた。劣化した壁でも外よりは遥かに砂や風の勢いが弱まる。それでも男の足取りは今にも崩折れそうにふらついていた。
夢遊病者のような足取りでたどりついた先は、かつては少年の寝室があった一角だった。窓が壊れて吹き込んだ砂が部屋の隅に吹き溜まっている。寝台の場所に吹き積もった砂の山を見つめていたソロの目に、狂気に似た光りが宿る。その場に膝をつき、男は手で積もった砂をかきわけ始めた。さらさらと崩れていく砂が、部屋中に撒き散らかされていく。やがて手の動きが止まると、乱れた息遣いと風の音だけがその場所に響いた。
「くそ…畜生ッ!」
思いきり振り下ろされた拳は、砂に小さな窪みを残しただけで、悲痛な声は乾いた空気に溶けていった。
立ちあがり戸口を振りかえった男は、ゆっくりとした歩調でいまだ砂塵の吹き荒れる外へと歩き出した。
「キッド…」
だんだんと早足になり駆け出す男の瞳の中で、絶望と狂気がせめぎあう。
「ルーク!」
防壁を走り出た途端に襲いかかる嵐にもひるむことなく、ありったけの声をあげて少年の名を呼んだ。砂で肺が満たされようが、もう関係なかった。
「ルーク…!」
獣の唸り声にも似た音をたてて吹き荒れる風の中に人影を見た気がして、男は喉が張り裂けんばかりに繰り返し同じ言葉を叫んだ。
人影は見なれた人の形をとって振り向く。少年が最後に見せた諦めを甘受したあの顔で幻は哀しげに微笑んだ。吸い込んだ砂の所為でなく胸が痛み、少年の姿はかき消えた。
悲鳴にも似た呼び声は風に引き千切られた。ごうごうと唸る嵐は勢いを増し己の叫び声すら聞こえない。それでも男は少年を呼びつづけた。
聞く者のない悲痛な咆哮は吹き荒れる砂塵に吸い込まれていった。