交 差 す る 運 命
がらがらと何かが崩れる音がした。
手元を照らすため壁にたてかけておいた松明を取り、男は素早く振り返った。
まさか蛇じゃないだろうな…
そんなことを思いながら。
そこにいたのは蛇などではなく、両手両足を縛り上げられた少年だった。
何故、遺跡を調査していて生きた少年を発掘する羽目になったのか。多種多様な言語を操り、毎日頭の悪い学生相手に辛抱強く講義を行い、趣味で冒険家まがいのことをやってのけるジョーンズ博士にとっても、それは青天の霹靂だった。
ブロンドの髪に日焼けした肌の見るからに健康優良児といった風情の少年は、連れ帰ったホテルの一室でインディの寝床を占領したままだった。身に纏った見慣れない衣服は、アジア系の国の民族衣装にも似ていたが、資料も何もない現時点では国を特定することは出来なかった。
とりあえず、目を覚ましてもらわないことには身元も調べられない。あんな人気のないところに縛り上げられた状態で放っておかれたということは、何かの事件に巻き込まれた被害者である可能性が高いからだ。
スプリングの寿命がとうに切れているらしいソファにぐったりと身を横たえ、インディアナ・ジョーンズは深いため息をついた。
「…ッ…う…」
苦しげな声が聞こえる。目を開けると、そこには見慣れない天井があった。
ああそうか、ここは遺跡の近くの安宿だ
ソファに横になったまま、何時の間にかうとうとしていたようだ。眠りと覚醒の挟間をふわふわと彷徨う意識が、自分のおかれた状況を導き出す。と同時に、自分を起こした原因を思い出し、インディは硬いソファと同じようにぎしぎしと音を立てそうな体中の関節をだましだまし不承不承起き上がった。
安らかな表情でベッドの中央に寝ていたはずの少年は、ずり落ちそうな程ベッドの端に寄り身体を丸めて苦しげにシーツを握り締めていた。悪夢の内容は知りようがなかったが、眉根を寄せ荒い吐息を吐き出すその様子は見ているこちらが苦しくなってきてしまうほどで。
ギシリ、と嫌な音をたてるマットレスに一瞬ひやりとしながら少年の身体をそろそろとベッドの中央に戻してやり、枕もとに腰を下ろして額に滲む汗をシーツで拭ってやると、少年は聞きとれない言葉で何事かを呟いた。
「…?なんだって?」
どうやら、知っている言語ではないようだった。
聞き取れたのはただ一言、『ハン』だけだった。
兎も角起きて事情を話してもらわなければならない。もし言葉が通じれば、の話だったが。再びため息をつきたくなる衝動にかられながら、男は軽く少年の肩を揺すった。
「大丈夫か?起きてくれ、お前は誰なんだ?」
独り言に近い声音で呼びかけると、少年はびくりと身を震わせた。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。
青い。
まず真っ先に思い浮かんだのはそんなありふれた言葉だった。
吸い込まれそうな、透き通った青。少年のそれにしては大きな対が、焦点を合わせるように何度か瞬き、男の顔を見上げた。魅入られる、とはこういうことを言うのだろう。インディは金縛りにあったように動けずにいた。
次の瞬間、その青い瞳が切なげに揺れた。
そして、たった一言。
また、だ…
『ハン』と。
金縛りにあったままの男の眼前で、少年はまるで安心しきったように、すうと再び眠りに落ちていった。青い眼差しから開放され、安堵のため息が洩れた。
どうしたっていうんだ…
己の過剰なまでの反応に面食らいながら、首を振り立ち上がろうとすると、くん、と引っ張られる感覚があった。
「おいおい…」
少年の手はしっかりと男のシャツの袖口を握り締めていた。無理に振りほどく気にもならず、しばしの逡巡の後、インディはベッドを軋ませないよう注意しながら少年の傍らに横になった。
外は日が落ち始めているようだ。跳ね除けられていたブランケットを引き寄せ自分より華奢な肩を覆ってやると、少年は身体をこちらへと摺り寄せてきた。再度小さくため息をつき、空腹を訴える胃の痛みを忘れようとしながら、インディは眠りに落ちていった。
◆ ◆ ◆
小さなくしゃみで目が覚めた。
自分より体温の高い身体が近くにあり、インディは半分覚醒しながらも心地良い惰眠を貪っていたが、どうやら寒がりであったらしい少年は少し肌寒く感じたらしく、眠りに落ちた時よりその距離は更に近づいていて。まるでそのひとまわり程華奢な体躯を腕に抱え込むような格好で眠っていたことに気づいて、そういえば誰かと同じ寝台で朝を迎えるのは久しぶりだったかもしれないと男はぼんやりと思った。
朝の光がカーテンを閉め忘れた窓から差し込んでいた。少年を起こさぬようそろそろと起き上がって、彼は欠伸を噛み殺した。シャツを掴んでいた手は夜のうちに毛布をかき寄せるのに使われたようで、インディは臨時のベッドメイトを起こすことなく床を抜け出すことができた。
自分がかけていた毛布をかけてやり、眩しすぎる朝日をまるでぼろきれのようなカーテンで遮ると、彼はすーすーと寝息を立てる少年を見下ろした。もうしばらくは起きないだろうと踏んで、その間にシャワーを浴びることにした。
鏡もないバスルームはお世辞にも綺麗とはいえなかったが、それでもちゃんと湯が出るだけましな方だった。ヒビが入り水漏れしているシンクに水を張り、少しの間悩むと、いつも教授を休業している間は面倒でそのままにしていることの多い無精髭を剃った。水に映った顔を見ながらだったので少々てこずったが、何か物足りない気分で顎をさすりながらも男はさっぱりした気分でバスルームを出た。
まだ寝ているだろうかとベッドを見やると、少年のあの青い眼差しを目で認識するより先に肌で感じ取り、インディはその場に立ち尽くした。少年はシーツを握り締めたままベッドに座り込み、不安げな目でこちらを伺っていた。いっぱいに見開かれた瞳に昨夜と同じ安堵の光が過る。しかしその光は刹那、絶望に塗り替えられた。
──泣いて、しまう。
衝動的に、眼差しに縛られていたことも忘れ、彼はベッドまでの短い距離を足早に横切った。くしゃくしゃになったシーツに膝をついて少年を抱き寄せると、マットレスが悲鳴をあげるようにギシギシと音をたてた。腕の中に抱き込んだ身体は強張っていたが、震える背中を何度か撫でてやると力を抜いて身を任せてきた。シャツ越しに感じる少年の冷たい頬がシャワーで火照った身体に心地良い。
「大丈夫だ」
低い声で告げると、肩口に触れている柔らかい髪が揺れた。少し腕の力を緩め、こちらを見上げてくる少年と向かい合うと、潤んだ瞳はそれでも強い光を取り戻していた。少年の額にかかる柔らかなブロンドの髪をかきあげてやりながら、ゆっくりと一言一言を口にしながら名前を尋ねるものの、やはり英語は通じなかった。首をかしげる少年に対し、思いつく限りの言語で簡単な挨拶やフレーズを口にしてみたが、返って来たのは戸惑いをはらんだ眼差しだけだった。
なんとなく予想はしていたが、少しの反応も示してくれないとあっては落胆の色を隠せず、インディは困惑をたたえた青い瞳から目を逸らし天井を仰いだ。
兎も角名前だけは聞かないと困るだろう、そう思い直して正面を向くと自分を指差し「インディ」と何度か繰り返す。どうやら合点がいったらしい少年は、やはり聞きなれないその言語で何事かを口にすると、微笑んだ。
「本当にわかったのか?」
呆れたように呟くと、少年は心外だとばかりに彼を指差し、たどたどしくはあったがしっかり『インディ』と得意げに言って見せた。
「そうだ」
そういえば、こんな会話を何年か前にもしたことがあった。上海の裏路地でスリの子供をつかまえたことを思い出し、男は相貌を崩した。聡いところや人懐こいところは同じだな、と思い出し笑いをかみ殺しながら、彼は再び英語で少年の名前を訊ねた。
自分の胸を指差した少年は、名前らしき単語を何度か繰り返し口にした。
「ル…−ク?ルーク、でいいのか?」
確認するように瞳を覗き込みながら名前を呼ぶと、少年はくすぐったそうに笑った。
「よろしくな、ルーク」
つられて微笑みながらそう言うと、何故か少年の瞳に寂しげな影が射した。何時の間にか伸ばされていた手が頬に触れた。忘れていた金縛りが再び四肢の自由を奪って、男は息を飲んだ。目に映る青い瞳を揺らすのは昨夜と同じ、脆く儚げな光。
少年──ルークがインディの胸に頬を寄せ、アイコンタクトが外れると同時に、彼の世界に時間と音が戻った。無意識に止めていた息を何度か瞬きをしながら吐きだして、遠慮がちに体重を預けてくる少年の蜜色の髪を梳いてやりながら、休暇中のジョーンズ教授は前日から数えて三度目のため息をついたのだった。